交わる世界 Faile 16 「ギタリスト失格」

今回はわたしが、無謀にもギターに挑戦したお話をすることにいたしました。

わたしのように、その成長期に第二次世界大戦・・・太平洋戦争の末期に遭遇してしまった者は、ろくろく食べ物が手に入らなかったことはもちろんのこと、まして栄養価の高いものなどが簡単に手には入らなかったので、そのためにそれが大きな障害になって、全体的に小粒な者が多いし、体格もどこか貧弱な者が多いようです。ところが贅沢が出来なかったこともあって、余計なものを摂取していなかったことが幸いしたのか、それとも否応ナシに押し付けられた我慢が身についたのか、現代の人よりも耐久力はついたようで、今でも頑張っている人が意外に多いようです。

ところがあの頃は空襲が激しくなったこともあって、都会に住んでいた者は転々と住むところを変えていかなくてはなりませんでした。わたしも集団疎開で茨城県の潮来へ、その後縁故疎開で岐阜県の山奥へ移転、終戦でまた東京へ戻るといった状態で、当然のことですが、その度に学校も変らなくてはなりませんでしたから、落ち着いて勉強も出来ませんでした。そのために一番困ったのは算数の分数でした。ちょうどそれを勉強しなくてはならない時に、居所を転々としなくてはならなかったので、学力が中途半端になってしまって苦労した記憶があります。後年、数学が好きになれなかったのは、そのためではないかと思うくらいなのですが・・・。

ところがこの頃の後遺症と思われることがもう一つあるのです。

つまり音楽での楽器を扱うことの不慣れという問題です。

あの頃は、手に入るものといえば、精々ハーモニカぐらいなもので、自由になったのは声を出すことぐらいでした。わたしは少年時代ボーイソプラノという声質だったので、自分で言うのもおかしいのですが、大変澄んだ、美しい声をしていました。音楽の授業では、いつも模範歌唱をやらされ、学芸会ではいつも独唱ということをさせられたほどでした。それなのに衝撃的なことが起こったのは、中学生になってから間もなくのことでした。声がまったく出なくなってしまったのですが、暫くして声は回復すると、自分でも信じられないような声質に変ってしまったのです。変声期に無理して声を出していたからだったと言われましたが、完全に大人の声に変わってしまったのでしょう。

とにかく少年時代は、こうして声を出すことはあったけれども、さまざまな事情によって、楽器はハーモニカぐらいしか扱えなくなっていたのです。一番大きな原因と言えば、やはり戦争でした。

とにかく空襲を避けるために、点々と居所を変えなくてはなりませんでしたから、何かじっくりと見につけると言う機会に恵まれませんでした。わたしたちの世代は、戦争という実戦の場に駆り出されるようなことはなかったし、工場へ動員されて、武器を生産させられるようなこともありませんでしたが、いろいろな意味で戦争の影響は受けていた世代だったということが言えます。

戦後もすっかり焼けてしまった住居跡が復興するまでは、住居が定まりませんでした。従って、とても楽器を習得するような雰囲気にはならないままでした。歌だけは歌っていましたが、ついに楽器は扱うことがないまま成長してしまったのでした。

(何か一つぐらいは、扱えないだろうか)

夢見るようになったのは青年時代を迎えたころからでしたが、その頃になると、仕事や、子供の面倒のために、とてものんびりとした時間は持てなくなってしまって、楽器に親しむという機械はありませんでした。子供が稽古をするために買ったピアノを、悪戯で弾いてもみましたが、まったく思うようにはなりません。学生時代に観た「禁じられた遊び」という映画で演奏されていた、あまりにも美しい音色に魅せられて、いつかギターが弾けるようになれたらと思うようになったりしたのですが、仕事が忙しくなってしまって、そんなことを実際にやってみる時間がなくなってしまいました。しかしやがてフォークソングの全盛時代がやってきました。そして或る人たちと出会うきっかけができたのです。「結婚するって、ほんとうですか」で大ヒットを飛ばして、人気が一気に高まっていたダ・カーポがその人たちでした。彼らは竹宮恵子さんの「地球(テラ)へ」という漫画の映画化で、その主題歌をダ・カーポが歌うことになったのですが、わたしはその漫画のノベライズを、A社から依頼されたのです。そんなある日のこと、Sという雑誌社から主題歌を歌う人と、その漫画を小説化することになったわたしとを、対なったわたしとを、対談させたいと言ってきたのでした。

この時の出会いがきっかけで、ダ・カーポとは、コンサートの構成をしたりして公私共に親しくお付き合いすることになるのですが、やがて「宇宙皇子(うつのみこ)」の映画化の時は、その主題歌である「夢狩人」と「かぎりなき愛を」を歌って貰うことになったのは、そんな縁からでした。彼らは仕事の帰りによく遊びに寄るようになりましたが、ある日のこと、「先生も、ギターぐらい弾いてみてはどうでしょう」と言って、ケースに入ったものを持って来てくれたのです。

びっくりしてしまいました。

彼らが使っていた、サイン入りのギターでした。

いつかギターぐらいは弾いて見たいとは思っていましたが、そんなことを雑談の中で漏らしたのを彼らが覚えていたのです。

「よし、やってみよう」

愚かにもわたしは大決心をしてしまったのでした。

翌日。早速楽器店へ行って、初心者用の練習のための楽譜を買ってくると、家の者が出かけている間に練習を開始しました。

五十台になっていると言うのに実に若者風で、赤い幅広のヘアーバンドをして、ポロシャツ、ジーパンという姿で、応接間に籠もって練習開始。

イメージでは、美しい戦慄を奏でているはずでした。

ところが何もかも初体験で、先ず弦を抑えることさえも大変です。

とても華麗なる戦慄など、頭の中で流れているだけで、現実には空しいボロンボロンという音が流れるだけでした。

そんなところへ、物売りが玄関へ現れたのです。

男はドアーを開けたわたしの身なりを見て、きっとわたしをどら息子と思ったのでしょう。如何にも馴れ馴れしく、「お母さんいる?」と訊くのです。

すでに二児の父親となっているわたしは、すっかり一家の主としての尊厳が傷つけられてしまって、わざとはっきりと答えました。

「女房は出かけていますが・・・!」

「ああ、ご主人だったんですか・・・」

男は呆れたような顔をして、あっさりと引き下がっていったのでした。

一家の主であるというのに、息子に見られてしまった屈辱のために、ああ、何ということか、わたしはその日をもって、ギタリストを目指すことを断念してしまったのでした。

何と言う軟弱ぶりか・・・。

いつも「やろうと思ったことは、やり抜く気持ちがなければいけないぞ」などと子供に言い聞かせてきたと言うのに、ついに親の権威もすっかりどこかえ押し込んでしまって、その日からギターを引っ張り出すということがなくなってしまいましたが、その後学校のフォークソング・クラブへ入った娘は、ギタリスト失格を宣言した情けない父に代わって、独学で習得してそのギターを奏でてくれたのでした☆

ダ・カーポのギターの写真