原滋男さん パラリンピック・レポート

パラリンピック・レポート

二十世紀最後のパラリンピック。シドニーで開催されたこの大会には、122の国と地域から、約3,800人の選手が集まった。日本からは151人の選手が出場し、私もその一人として自転車競技に参加した。

私が初めて世界に挑戦したのは、1992年のバルセロナ大会。陸上の走り高跳びで4位、世界の強さを実感した。96年のアトランタ大会では、やっとの思いで銅メダルをもぎ取った。喜びとともに、金メダルへの意欲が湧いてきた。そして、私は自転車競技に転向し、金メダルへの挑戦を始めた。

私の出場する競技は、2人乗りの“タンデム”という自転車を使用し、ハンドル操作等をする前乗り(パイロット健常者)と、後に乗る視覚障害者(ストーカー)が組む。2人の技や力に加え、コンビネーションが重要なポイントとなる。

10月23日、1kmタイムトライアル。カント(傾斜)42度、250mのバンクを4周する。2年半前にタンデムに挑戦することを決めてから、この日のために練習を続けてきた。

ウオームアップでは、毎日の練習で使ってきた15秒間隔のアラーム音を聞き続ける。夕方に職場を離れた後、聞き続けたこの音は、この日を目指して練習で培った70秒間のイメージと、気の遠くなるような苦しさ、そして練習や合宿につきあってくれた仲間たち、家族、職場、友人など多くの応援してくれた人たちの顔を思い出させる。

日本のもう1チームが、彼らの自己ベストを更新。17番スタートのイギリスのチームが自らの世界記録を更新、スタンドは最高潮に盛り上がる。舞台は整った。

いよいよ私たちの出番である。

ピーッ、ピーッ、ピーッ、ドン。スタートと同時にペダルを踏み込む。自分がやってきた全てをぶつける。500m通過、スタンドの歓声が聞こえた。750m 通過、 いつものように乳酸がたまってくる。自分の限界を越え、未知の世界への挑戦。獲物を追う野獣のように、私はゴールを求める。そしてゴール。

"ワールド・レコード"自分とは縁がないと思っていたこの言葉に、私の心は花火のように舞い上がった。

自分たちのために流れる"君が代"はすばらしかった。

私が、このような経験を得ることが出来たのは、自分に障害があったからであり、 私はこれを誇りに思います。また、このような機会は決して一人では得ることの出来 なかったもので、私を応援し支えてくれた多くの方々がいたからこそと思います。本当にありがとうございました。

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