「最後の誘惑」

 名匠マーティン・スコセッシ監督が、渋めの俳優ウィレム・デフォーを擁してイエス・キリストの生涯を描いた映画。デフォーがまた、肖像画とかに描かれたイエス・キリストそっくりなのが面白い。ま、メークや衣装の雰囲気もあるんでしょうけどね。

 何でこの映画を観ようと思ったかというと、シュワルツェネガー主演の映画 "The Sixth Day" の邦題がどうして「シックス・デイ」になるのかという話が某Webサイトで出ていたんです。で、これ自身はきっと日本語の語呂の問題だろうと思ったのですが、原題の「第6日」という事に関して「旧約聖書の神様が第6日までに何をやったか」についてWebで検索していたら、その関係で結構新約聖書関連のサイトも見つかったんですね、当然のことながら。その中で、イエス・キリストさんてのは別に聖人だとか道徳を説いたとか革新的に反ローマに走ったというもんではなく、要するに当時としてはややアナーキーな言動に走っちゃうただの大工だったんじゃないか、っていう話が出ていたんです。まあ、確かに開祖の死後に弟子が話をどんどん美化していくってのはありがちな事ですしね。

 で、この「最後の誘惑」。基本路線としては、一応イエスが神の声を聞いたり奇蹟を示したりといった、正統キリスト教的な(?)神の子として描かれてはいます。その意味では、砂漠に出て、悪魔の幾つかの誘惑を断ち切り、ゴルゴダの丘で磔にされるまでのシーンは(確かにクライマックスへの伏線にはなっているものの)あんまり目新しい部分がありません。敢えて言うなら、聖書における最大の裏切り者であるユダが、実は最初から教団の計画として裏切りの役目を担っていたというあたりでしょうか。

 クライマックスのゴルゴダの丘で、イエスは死に瀕した自分に何故神の救いが無いのかを嘆きます。するとそこに天使がやってきて、彼を人知れず十字架から解き放ち現世の安息の地へと導きます。そして、イエスは人としてその先の人生を生き、子を成して老いていく。ところが、彼の生死と関わりの無いところでイエスという存在が神の子・救世主として祭り上げられていくのを目の当たりにします。さらに、人生を閉じようとするイエスの枕元で、ユダをはじめとする弟子たちは計画を放棄したイエスをなじり、イエスを救い出した天使の正体は悪魔だといいます。そう、この人としての人生を全うするということが「最後の誘惑」だったんですねえ。ここでハタと気づいたイエスは幻影から目覚め(いわゆる夢オチ)、再び十字架の場面に戻ったところで、誘惑を断ち切った満足感とともに命を閉じます。

 最後の締め方はスコセッシ監督一流のバサッという感じで、悪く言えば身も蓋もないんですが、逆にラストよりもむしろその前の部分にストーリーの重点があるように感じさせます。この映画のストーリー自体も受け取り方がいろいろ幅広いんですが、この映画で描きたかったのはやはり奇蹟をやるイエスでも誘惑を断ち切るイエスでもなく、人としての普通の生活にふと安らぎを見出してしまうイエスなのではないかと思えます。最後のシーンは、公開当時にキリスト教関係者からの批判があったための妥協であるようにも、あるいは「ほらイエスは誘惑から逃れたろ、これで文句はあるまいよ」という皮肉のようにも見えます。なにぶん世界でも指折りの巨大宗教教団によって神の子とあがめられる人の伝記映画ですから、作る側もずいぶん神経を使ったことでしょう。

 ちなみに、ユダヤ教徒(神は神だけであって、「神の子」なんつーものは存在しないと考えてる)に言わせると、イエス・キリストは「世界で一番うまくやったユダヤ人」という認識なんだそうです(笑)。


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