世紀末の芸術の華
オーブリー・ビアズリー展


 ビアズリーは1872年8月21日、イギリス南部のリゾート地ブライトンに生まれた。家族は金銀細工師の息子である父、裕福な中産階級出身の母、そしてビアズリーと大変仲のよかった1歳年上の姉メイベルであった。一家は貧しく、高い教育を受けた母親が音楽の家庭教師をして家計を支えていたが、この母親の影響でビアズリーも幼い頃から音楽や読書、絵に親しみ、特にピアノの演奏には早熟な才能を示した。10歳の頃には、親戚の求めに応じてビアズリーがパーティーの招待状やメニューの図案を描き、お小遣いを稼いでいたとも伝えられている。この頃の彼のお気に入りはケイト・グリーナウェイが挿絵を描いた絵本で、模写を試みていたようである。しかしこの少年時代に早くも、後に彼の生命を奪うことになる結核が健康を蝕み始めていた。
 12歳の秋、ビアズリーはブライトンのグラマースクール(初等中学校)に入学し、ここでキングという演劇好きの教師に出会う。彼はビアズリーの文学や絵画の才能を認めて激励し、才能を伸ばすための援助を惜しまなかった人物であった。校内では彼の企画によると思われる生徒たちによる演劇の上演が活発に行われており、ビアズリーも積極的に参加した。こうした演劇活動は彼の芸術的想像力を大いに刺激したであろう。
 1888年、学業を終えたビアズリーはロンドンで測量事務所に就職、翌年保険会社に転職するが、この年の秋、結核の発作に襲われ休養を余儀なくされる。健康状態が落ち着くと、勤めのかたわら文学方面での仕事を考えるようになるが、1891年の7月初め、あるコレクターのもとでラファエル前派(初期ルネッサンスの素朴な絵画を理想とするイギリスの若い画家たちのグループで、1848年に結成された)の傑出した画家、ロセッティとバーン=ジョーンズの作品、またホイッスラーがデザインした有名な食堂「孔雀の間」を目にし、強く感銘を受ける。その後すぐに、彼はバーン=ジョーンズのもとを訪れ、この大画家に画才を高く評価されたことから最終的に画家になる決意を固め、彼の勧めでウェストミンスター美術学校の夜間クラスに通い始める。この1891年から92年にかけての時期、つまり19歳から20歳にかけて、ビアズリーはバーン=ジョーンズやホイッスラー、またイタリア・ルネッサンスの画家マンテーニャや、さらに日本の浮世絵版画の影響を受けた作品を制作しながら、次第に独自のスタイルを確立していく。92年の夏にはパリに出掛け、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ に作品を見せ激励される。ピュヴィスは画壇で一目置かれる存在であるとともに、若手の前衛画家にも尊敬されていた画家だったため、彼の評価にビアズリーは大いに励まされ、自信を深めたであろうことは想像に難くない。
 ロンドンに戻った彼に、大きなチャンスが訪れた。出版業者デントからの、『アーサー王の死』の挿絵の依頼であった。『アーサー王の死』は、中世のイギリスに伝えられた伝説的な英雄アーサー王にまつわるさまざまな逸話を、15世紀の騎士マロリーが物語に仕上げ、1485年にイギリス最初の印刷業者キャクストンが編集・刊行した書物であるが、デントは新たに、中世風の挿絵を入れた美しい本の出版を計画していた。19世紀後半のイギリスには、機械によって大量に生産される製品の質の悪さへの反発などから、中世の職人が手掛けたような、手工芸品を尊重する気運が生まれ、ジョン・ラスキンやウィリアム・モリスらによってアーツ・アンド・クラフツ運動が提唱されていた。特に中心になったモリスは優れたデザインの家具、壁紙、染織、装飾本などを製作、日常生活に美しく質の高い品々を取り込もうとしたが、手仕事で作られるそうした品々は、理想とは異なり非常に高価なものであった。デントはこうした伝統のもと、美麗な書物を新しい印刷技術(後述するライン・ブロック印刷)によってより安価に刊行しようとしたのである。最終的に2巻本にまとめられたこの『アーサー王の死 』のために、ビアズリーは大変な労力を注ぎ300点を超す挿絵やページの縁飾りを制作した。それらは中世の雰囲気を色濃く漂わせながらも、白と黒の簡潔な対比、描線の強靱さ、そして植物的装飾文様が単なる装飾を超え、生命力をみなぎらせた有機的な形態に変えられている点などに、新しい時代の息吹を感じさせるものであった。
 『アーサー王の死』と並行して次第に挿絵の注文が増えてきたため、1892年秋、ついにビアズリーは保険会社を辞め、画家として自立する。1893年4月には、美術雑誌『ステュディオ』の創刊号でビアズリーの作品が紹介され、これを機にオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の挿絵の注文を受けた。
 サロメとは、母親ヘロディアにそそのかされて洗礼者ヨハネ(ヨカナーン)の処刑に関わったとして、新約聖書の記述の中に登場する少女であるが、この少女が世紀末には、男を破滅に追いやる「宿命の女」の典型としてクローズアップされてゆく。世紀末のサロメはヨカナーンに恋をし、拒絶されると、エロティックな踊りで義父ヘロデ王の心を捉え、踊りの褒美として王にヨカナーンの首を所望するという、背徳と死に貫かれた残酷な物語のヒロインに祭り上げられるのである。そのイメージを決定的なものにしたのが、モローが描いた何点かの絵画作品と、それに触発されたワイルドが著した戯曲、そしてビアズリーが制作した挿絵の数々であった。
 ビアズリーはワイルドの描写にとらわれずに、きわめて独創的な挿絵を生み出した。凝った装飾性と、浮世絵版画に学んだ白と黒の平面による構成の大胆さ、そして流れる線の美しさが融合したそれらの作品群は高い完成度を示し、世紀末芸術の代表的作例として今日でも高く評価されている。しかし画面に溢れるエロティシズムとグロテスクは、当時のヴィクトリア朝社会の道徳規範との間に摩擦を生じさせるものであった。
 ヴィクトリア女王(在位1837−1901年)の時代、イギリスは経済的な繁栄を誇ったが、社会全体は保守的な道徳観に支配されていた。偽善的な上品さが行動の基準となり、男は外で働き、女は家庭を守るという役割分担も強調された。そしてこうした男女の役割を逸脱するようなあり方、つまり性的な存在としての人間の姿を直接・間接に示す一切の事柄や、さらに、女性の公的権利の拡張の要求までもが、タブー視されていた。そうした中で保守的な批評家は、「エロスの本能に忠実に」「男を破滅させる恐ろしく、強い女」の姿を描き出したビアズリーの作品に、タブーを犯し社会秩序を破壊しかねない危険な要素を感じとり、新聞や雑誌で激しく非難した。それは、タブーによって隠蔽されていた人間の本性のある面、あるいは抑圧されていた率直な欲求が、ビアズリーの作品の中に具現されていた、しかもそのグロテスクな美が与えた衝撃が社会を動揺させるほどの力を持っていたことを、意味するのではないだろうか。この点に、社会と芸術表現の関わりを巡る、普遍的な問題を見ることができるだろう。
 非難はさらに、ビアズリーが美術担当の編集者に抜擢された新雑誌『イエロー・ブック』に対しても向けられたが、マスメディアを舞台にしたこうした騒ぎを通じて、ビアズリーの知名度、名声もまた一気に高まっていった。
 だが1895年4月に、ビアズリーを取り巻く状況は一変する。ワイルドが同性愛を理由に逮捕、投獄されるというスキャンダラスな事件が起こり、『サロメ』の挿絵画家ビアズリーも、それに巻き込まれる形で失脚し、『イエロー・ブック』の仕事も失なってしまう。失意のどん底に落とされ、経済的にも困窮したビアズリーだが、翌年には詩人のアーサー・シモンズらの誘いで、新雑誌『サヴォイ』の発行に参加、同誌上で再び優れた挿絵を発表するようになる。
 この頃からビアズリーは18世紀フランスのロココ趣味に関心を示すようになり、その時代の版画作品を真似た、より精緻な、華やかな表現を追求するようになる。1896年に発表された『髪盗み』の挿絵は、ハーフトーンの代わりに繊細なレースを思わせる細かな点描が用いられ、華やかさを醸しだすとともに、作品全体には調和のとれた古典的な風格が漂い、ビアズリーの芸術が円熟の域に達したことを示している。しかしビアズリーに残された時間はあとわずかであった。結核が進行し、健康状態は悪化していくのであった。
 それでもビアズリーは制作を続け、ユーモラスな、しかし病によって抑圧された彼自身の性欲のはけ口とも見える性的描写に満ちた『女の平和』や、テオフィル・ゴーティエの恋愛小説のための挿絵『モーパン嬢』の原画などを描いたが、1898年3月16日、療養先の地中海沿岸のフランスの保養地マントンで息を引き取った。25年と半年の生涯であった。
 6年にも満たない画家としてのキャリアの中で、時代の寵児という言葉が相応しいほどの評価を受け、しかも瞬く間に世間の悪意に合い人気を失っていったビアズリーの浮沈は、新聞や雑誌といったマスメディアの発達なくしては考えらない。それはまるで、現代のテレビのワイドショーや週刊誌のセンセーショナルな報道を見ているようなものだったのではないだろうか。同時に、ビアズリーの芸術がそれだけの物議をかもしたということは、彼の作品が多くの人の手にほぼ同時に渡り得たという状況を背景にしている。それを可能にしたのが、1880年代に実用化されたライン・ブロック印刷という、素描の複製技術であった。この技法は、写真製版を利用した腐食銅版画の一種で、従来の木口木版などの方法ほどには、手間も熟練した技術も必要とせずに、原画を再現することを可能にした。ただしハーフ・トーンが出せないという欠点があった。『アーサー王の死』や『サロメ』といったビアズリーの挿絵の多くはこの技法で刷られていたが、そのために作品の質が保たれたまま、比較的安価な書籍の形態で、多くの人々が購入することができたのである。しかもビアズリーは、ハーフ・トーンが出 せないという欠点を逆に利用し、白と黒の対比の美しさを最大限に生かした表現を生み出すことに成功したわけだが、こうした制作態度は、自作が複製され流通することを前提にしたものだったことを示している。
 このように、作品の複製手段という意味でも、作品の発表のための媒体という意味でも、また作者や作品についての情報を伝達するための媒体という意味でも、ビアズリーはメディアと密接な関係を持っていた芸術家であった。
 さらに、前述のように『サロメ』を中心とするビアズリーの作品は、社会と芸術の関わりという普遍的な視点からの読み取りも可能であるが、社会のあり方を告発するような問題をはらんだ作品が、事実をあからさまに暴き出す写実的表現によってではなく、その対極に位置づけられるような反自然主義的な様式美において実現されているという緊張の中に、彼の作品が今日なお私たちに強烈な印象を与え続けることの秘密が潜んでいるように思われる。
川崎市市民ミュージアム 学芸員 中山久美子さん
/藤原秀憲 一部改

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