東京ジュニア・コーラスの歴史   天ヶ瀬 恭三
(第二回)
LaLaLa No.19

 (二)
 昭和二十一年三月三日のお雛祭りが終ってから、急ごしらえのコーラスも「奥沢小学校同窓会音楽同好会」なる名称のもとに、たのしいパーティとして発足した。折角縁あって集ったものが、これっきりでさよならではあまりにも惜しいというのが動機で、早速その次の土曜日から、適当に歌い、適当に駄弁ることにしたわけである。大島秀麿、数野邦治、吉野茂夫、石川すみ子、半井あや子、等々という方々がその中心であった。斉唱の「汽車ポッポ」などで景気をつけてから、ホーソンの「希望のささやき」など、ドイツ民謡「帰省」や「ムシデン」とからませながら歌っていた。もともと同声二部か三部の曲を混声――名実共に混声――二・三部で歌った。
   歌も楽し 山小道
勿論指揮者なぞいない。金森先生もお仕事の関係上、いつもいらして下さるわけにいかないので、ただ馬鹿みたいになって歌っていた。馬鹿か気狂いが多いほど、こういったパーティは活気づくもので、土曜の練習日はいうに及ばず、連日連夜、幹部連の誰かの家にたむろしては、われわれのコーラスの練習方法如何だとか、この同好会のあり方如何だとか論じたあとで、歌い且歌った。読譜力よりはむしろ暗譜力の旺盛な諸氏が片っぱしから憶えた歌の数は相当なものだった。みんな小さな民謡風のものであったが、あたかもカラカラにひからびた海綿が水を吸う如き勢でこれらを吸収した。時にはシューマンの「流浪の民」としゃれて見たが一向にはえなかったとはいえ、その意気たるや壮たるものであった。
 音楽同好会のこの動きに対応して、奥沢小学校の同窓会では更に二つの同好会、即ち読書会、演劇同好会が誕生した。動機はいずれも大同小異で、互いに相倚り相助けつつ、鼎をなして生長した。氷がとけて蕾がほころびると一緒に、文化の花も一時に咲きそろったかの如きである。学校当局や土地のお父さんお母さん方の同情ある眼に見まもられながら、それでも自分達は全くの独立独歩のつもりで堂々の行進を開始したのである。
 その頃のコーラスは総人員五十名ぐらいであった。技術的云々は一向話題にものぼらず、専ら歌って楽しむという、極めて純粋なものであった。土曜日の放課後が心のオアシスであった。会員相互の接触がその度合をつよめる。いわば理想的な桃源郷である。
 夏休みが終った九月一日に同窓会の復活第二回総会を開くことになった。動きたくてたまらない連中のことだから、たちどころに話がまとまって、音楽同好会のコーラスと、演劇同好会の劇、二・三本がそのレパートリーになった。片や「ピノチオ」の稽古をしているかと思えば、片や「青きドナウ」の練習に大童わという日が夏休中続いた。指揮は当時国立音楽学校に在学中であった石川すみ子さんで、女ながらにすばらしいジェスチャーに、男女あわせて六十名からの会員が大口あいてわめいた。ドルチェは全くアドルチェとなったが、そのフォルティッシモはフォルティシッシモとなって効果満点。もっともこれは歌っている側の効果であるが。
 この時に歌ったものは次の通りであった。
指揮 石川すみ子
伴奏 金森晴生・半井あや子
女性二部合唱  森の歌         キュッケン
男性三部 〃   故郷          ドイツ民謡
混声二部合唱  この道          山田耕筰
 〃      希望のささやき       ホーソン
 〃 四部 〃   美しく青きドナウ   シュトラウス
 実にバラエティにとんだプログラムで満場の喝采をあびたが、発表後の批評によると、正直にいって聞いている方が赤面するようであったらしい。「青きドナウ」は伴奏と歌のテンポがくい違って来て、それに又棒のテンポがからみあい、正に三者巴となって奮戦したが、歌っている我々が会心の笑みをもらしたのは、ただ最后のコーダだけであったのだから、その程度は推して知るべきである。「希望のささやき」は日がな夜がな散歩用の歌として愛用していたものだから、それほどトチリはしなかった。
 総会が終ってぞろぞろ皆が帰って、関係者があとかたづけをしている最中に、突然、雷を伴った大夕立が来た。とじこめられた我々から期せずして大合唱が起った。夕立の音にもめげず、たからかにひびいた歌声は、あたかも、私達の輝しい第一歩を記念するかのように、会員の心にやきついたに違いない。パッショネイトな若者が歌と共に立上り、踊り出すのは、けだし万古不易の真理である。

  (三)
 同窓会が終ってからも、毎土曜日の集りは依然として続いていたが、総勢六十人は見る見るうちに減少した。とたんに十数名のあわれなコーラスに 落したが、主導者たちはさらに策をねって、ポピュラーレコード・コンサートを開催した。時九月十四日午後三時より。方々に宣伝ビラをまいて、講堂にすばらしくボリュームのある電蓄をかゝえこみ、頽勢挽回をはかった。そのプログラムはこうである。
              解説 数野邦治
一、歌劇「椿姫」第一幕前奏曲   ヴェルディ
二、コリオラン序曲     ベートーヴェン
三、夜想曲変ニ長調 作品十五の二 ショパン
四、舞踏への招待         ウェーバー
五、ボロヴィッチの娘達の踊り   ボロディン
六、ピアノ協奏曲第一番 ホ短調 ショパン

参会者は約三十名で用意した椅子もだいぶ余ったが、その時はじめて台湾から復員したての陸軍航空少尉佐原正氏が飄然とあらわれた。しずかにポピュラーな曲に耳をかたむけてのち、傍にいた僕らにいろいろうんちくをかたむけてレコード評をしてくれた。『すげえのが来たぜ』などと後で僕にさゝやいた男もいたくらいだから、これはたしかに一大事件であったにちがいない。
 その数日后、大島、数野両幹事が、新入の佐原さんなどと、音楽による地方文化の向上などについて、歓談みたいなものをして見たが一向にらちが明かない。集りは悪くなる一方だし、どうかすると各パート一人ずつもあぶないような状態では、又何をかいわんやであるが、それにしてもこの期間においてなされた種々の討論とその結果得た理想論とは、長くこのコーラスの理論的大前提となったのだからゆるがせに出来ない。西洋史にも中世という時代がある。華かなギリシャ、ローマ文化にくらべて一見したところ、はなはだ無活動的な、暗黒の次代であったが、しかしこれなくしてあのルネッサンスがありえなかったとするならば、我々のこの期の暗黒時代は、いわば内向的な面を確立する中世に相当していたといってもよい。あれやこれや策を練る中にも、常にこのコーラスによって日本の新文化を築こうという確固たる、しかも広大な理想が厳然と根をはっていたのである。目先は目先、理想は理想と、佐原さんをしていわしめれば、若き者の情熱のほとばしるまゝに、融通無碍なる活動を期待せしめる偉大な胎動が始ったのである。
 ところが練習日は相変らず駄目だ。はじめた時のよろこびとそのファイトがすさまじかっただけに、つかれが出たのか知れない。年おしつまり、寒さが加わったので夜逃げをやらかしたか、あるいは冬眠したのか。百八つの煩悩をはらえかしと除夜の鐘がひびいてくる。
  (次回に続く)