東京ジュニア・コーラスの歴史   天ヶ瀬 恭三
(第三回)
LaLaLa No.20
   (四)
 『歌の好きな人は手をあげてごらんなさい。(一向に反応なし、いささかあわて気味に)では歌の嫌いな方、手を上げて。おやこれもありませんね。こまりましたね。みなさん歌は好きなんでしょう。ねそうでしょう。そうですとも、私たちはね、今コーラスをつくって毎土曜日、楽しくやっているんですよ。みなさんもね、学校を卒業なさって、私たちと同じ同窓生になったんですから、みんなこぞってコーラスにはいって下さいね。わかりましたか。そう、みんなわかりましたね。そう、そう、じゃ後で申込みを受けつけますから、その時はどうぞ。』
 一九四七年の三月二十七日。奥沢小学校の新らしい卒業生をむかえて、例の三つの同好会が歓迎会を催した。読書会では何か有益なお話を一つ。演劇同好会ではチェホフの「熊」を舞台稽古の状態でご披露に及んだが、わがコーラスは去年からひき続いた低調さにわざわいされて、何一つとして歌えるものもなく、やむなく男性四重唱でお茶をにごしてしまった。
       テナー  天ヶ瀬、数野(邦)
       バ ス  佐 原、大 島
   三匹の蜂     ツルーン曲
   秋の夜半     トセリー曲
   五月       ドイツ民謡
司会は池田君で、スッタモンダの挙句、前掲の如き勧誘の辞が佐原さんによって行われた。われわれコーラスとしては、この機会に新らしい会員を募集して沈滞した現状に新鮮な空気をもたらせたいところである。申込受付の結果は大凡十五・六名の若き会員をえたのだが、この人々の取扱いは又一考を要するもので、種々協議の結果、佐原節子さんに御出馬願うことになった。所謂第二部というわけで、第一部は我々一般会員、第二部は声変り以前の少年少女とした。この第一部と第二部の練習日割りをどうしたのかわすれたが、ともかく週に二回の練習日を持つようになったことは、実質上はいざしらず、素晴らしい発展であった。練習が出来なくて、発表当日、四人で二・三回あわせただけで歌っちまった等というのとは、雲泥の相違である。
 これを機会に、度々の話し合いののち、幹事職が、大島、数野のコンビから、佐原、数野のそれへと変った。勿論、我々のコーラスでは幹事が更迭したことによって、それほど方向が左右されるということはなかったが、それでも結局は大島より佐原への方向転換がなされたことは事実だ。大島さんの考え方は主として前々回及び前回において、述べて来た如く、音楽を媒介としての楽しい集い、常に口に歌をもちうる雰囲気、二人寄れば二重唱、三人寄れば三重唱が出来るような、等々といったものをこの奥沢の若い人々の間に築いて行きたい、ということであった。佐原さんの考えも、勿論こういった大島さんの考えに反対ではなかったが、佐原さんの方は、更に音楽中心主義であり、更に啓蒙的であった。大島さんの趣味的に対し、佐原さんは職業的であった。大島さんの旋律的に対し、佐原さんは和声的であった。前者が暗譜主義ならば後者は読譜主義といってもよい。内向的に対して外向的というのも眞である。何回かの話し合いは主としてこういう点についてなされた。そして大してはげしくもない討論の末バトンが佐原さんに委譲されたのである。我々コーラスの性格も自らこれによって動かされざるをえない。
 この所謂大島イズムから佐原イズムへの移行は更に具体的な姿をとって表われて来た。新学期も始った早々のことだったと思うが、例の三つの同好会の面々が相寄って、更に学校側とも、又同窓会の幹事連とも相談の結果、次のようなことが内規として決定された。それは直接の原因としてはこれら同好会がよって立つところの同窓会が、近頃まるで有名無実となってしまった為、同好会を同窓会から切り離し、独自な方向に、独自な方法によって歩んでもよろしいということである。いゝかえれば、従来は会員を同窓生に限っていたものを、これからは同窓生以外の人々にも参加願って、奥沢全体の文化団体として発展しようというのである。実際のところ、対象を同窓生だけに限っていたのでは、殆んどその発展を望めないような状態だったので、これはむしろ当然のなりゆきだった。我々コーラスの前途がより一層光あるものになったのは確かだ。佐原イズムの外向的性格が、まずその端緒を見出した。奥沢を音楽の町に、というテーゼがいよいよその緒についた。第二部の設置も畢竟、第二の音楽的町民を育成しようという、遠大な計画の一こまに過ぎない。三十年計画などということが、そろそろいわれ出したのもこの頃だ。低俗な流行歌を追い出して、洗濯する娘さんの口にも「菩提樹」が歌われるような町、安っぽい楽団演奏ではなしに、つねに三重唱、四重唱、或いはコーラスが聞こえてくるような町。そんなすばらしい町を想像しては若き胸をたぎらせていたのである。
 しかしこれはただ単なる情熱だけでは不可能であり、単なる暗譜主義では不可能であることに当時の我々といえども当然気づいていた。我々の方向は、更に職業的なものへ向けられねばならない。趣味的、文芸的な集いから、専門的、音楽的な集いへと発展させなければならない。ただ会員を同窓生以外からも勧誘するというような外面的なことではなしにいわば我々の内面的構造の変革が必要であることに気づいていたのである。しかも、このことに関する限り我々のいかに熱心なる努力といえども、なしえない点が、なお残るのはいたし方のないことであった。
 その最もいゝ解決の方法は、いうまでもなく、先ず第一に、よき指導者を得ることである。我々の立場に同情をもち、更に我々の理想に賛成して下さる「先生」が先ず必要であった。三輪富康先生はその得難い「先生」だったのである。大島、佐原、数野の三幹部が、初対面の先生をおとずれた心臓もさることながら、全面的に我々に同情して、心よくお引受け下さった先生に、僕はむしろ不思議といってもいゝ程の感激をおぼえた。生みの親である金森先生も大変喜んで下さり、我々のコーラスも愈々その第一歩を大地にふみ出すことが出来たのである。この歴史的な日を忘れてしまったのは何とも申し訳ないが、四月の中旬のことであったのは間違いない。

  (五)
 立派な先生にご指導願うのに、肝腎の会員が集まらないのでは何とも辯明の仕様がない、とそのころの幹事連の活躍は涙ぐましいものであった。『どうぞすみませんが、今度の日曜だけは是非万障くりあわしてお出で下さい。お願いします』と奥沢、東玉川と説きまわり、やっと廿名ぐらいは集ったように思う。殆んど毎週、金曜か土曜ぐらいになるとこの行脚が始まる。失礼な言い分ながら、この頃僕の家では佐原さん、数野さんのコンビをめをと人形と称し、週末の景物の一つとなっていた。『こんどはAさんとD君と、えゝF君、Sさん、Tさん、それに君と僕で、七名か、ま、いい方だね。ともかくこれだけは確実だからね。』こんななさけないせりふが一種の相言葉になっていた。練習の方は、先生に来ていただいてから俄然活気付き、ドイツ民謡の「波のすさび」など、完全に俺のものだというような曲が次々と出来て来た。メンデルスゾーンなどがそろそろ本格的に取り上げられるようになって来た。
 その五月に演劇同好会が、新会員を使って発表会を行うことになったので、この機会を利用して、舞台に立つことになった。三輪先生の指揮下で歌うことはこれが始めてであり、又、この辺で一度、発表会でもやっておかないと、何んとなくふんばりがつかず、これは丁度いゝ機会だったのである。会員にとって見れば、いささか、自信のない発表会であったが、先生に適当によりかかったまゝ、三曲ばかり歌ってしまった。
     山びこ      ウェーバー曲
     森と別るる    メンデルスゾーン曲
     波のすさび    ドイツ民謡
舞台にピアノがおいてなかったので、先生のおふきになる例のビーとなる小さな音に耳をかたむけて、先ず「山びこ」をフォルテでぶっつけたら、全くの不協和音、えいまゝよとそのまゝぶっ通しているうちに何とか歌らしくなってきた。「森と別るゝ」と「波のすさび」はともかくうまく歌えたが「山びこ」の失敗だけはまだ昨日のことのように思い出されるから余程の事だったのだろう。メンバーは約十五人、いわば、さゝやかな演奏会ではあった。
 この演奏会を機縁に、先生と狎れ合うことを覚えた僕らは、黄色い口ばしをとがらしては、やれフォスターは低級だの、やれコールユーブンゲンは面白くないのと得手勝手にほざき、折角先生に教わりかけた階名唱法も自然ボイコットとなり笈を負って郷関を出すること旬日にして、錦も飾らず、安直な道を選ばんとしたのは、なんとしても意志薄弱な、しかも僭越なことであった。我々の「天路歴程」は遂に虚栄の市においてカタストローフとなるかの如きである。
  (次回に続く)