東京ジュニア・コーラスの歴史 天ヶ瀬 恭三
(第四回) LaLaLa No.21
(六)
我々のコーラスがはじめて独力で発表会らしいものを開いたのはその年の秋十月のことである。佐原さんと数野さんの腕の見せどころがいよいよ近付いた。小生もはばかり乍ら、その企画に口ばしを突込む光栄によくしたが、問題は山積していた。金を扱うべき方法に関しては全くの素人が、少くも一応の企業というものに手を染めた。税金などというものの存在がはじめて現実のものとして我々の前に現れたのである。税金を払わねばならぬと云う言葉と背中合せに、すぐ脱税と云う言葉を思い出したのは、正に末恐ろしき輩どもであったが、事実当時の十五割という高税をまともに払うことは不可能に近かった。我々とても国事非協力者というわけではないが要するに税務署や区役所と何やかやと交渉することがうるさいのである。だからそういう関係を一切もたない事が必要なのである。我々の企画の第一歩はこの点からであった。金を出来るだけ使わない事。総て招待制にして入場税の対象とならない事。出来るだけ小規模な室内音楽会にすること、等々はせんずるにここに源をもっている。大体の具体的な企画をあらかじめ書いておくならば 日 十月十二日午後一時より 所 奥沢小学校 音楽室 対象 会員の父兄、並びに知人、関係者約八十名 会計 入場料なし。必要なる費用は有志の寄付による。予算約六百円。 プログラム コーラス発表五六曲。三輪先生のソロ。その他専門家二三名招聘。 要するに、家庭音楽会の少し大きな、出演の謝礼というよりむしろ茶菓の接待費という意味での出費、そんな会を望んでいたのである。計画は九月の始め頃から立てられ、山気皆無、小心翼々の幹事諸兄が細大水ももらさぬお膳立ての終ったのが一週間も前。それでも当日の前夜ともなれば一時の鳴るのを聞き、二時三時の打つのを聞いたとこぼす幹事があったのだから、これが如何に大事業であったか云わばコーラスの運命を賭しての、のるかそるかの一戦だったかが推察されよう。 今、その時記念に撮っておいた写真をとり出して眺めながら思出の糸を繰って見よう。 写真を見るとまず第一に男性のいかにも少ないのに一驚せざるを得ない。女二十三名に対して男七名。これで堂々たる混声合唱を結成していたらしいから(?)わがコーラスの男声の素晴らしさ以て知るべしである。その男声七名は、佐原、数野(邦)、池田、秋間、数野(恵)、長田、それに小生で数野(邦)さんの背広を除いては皆、詰襟五つボタンに身を固めている。数野(恵)君は五分刈りのクリクリ頭に品行方正、学術優等という面構えで控えている。佐原さんはオッサン学生の体よろしく、臍下に組んだ両手がいかにもしおらしい。当時、このおのこの如何にも消耗した様をなげき、且つ慰め合ったものだが今にして思えば、まだまだ元気溢るる面々ではあった。 翻って女声を見ると、殆んど大部分が現在のコーラスにはおいでにならないようである。その中から現会員を拾って見ると、駒谷さん、斉藤さん、及びピアノ伴奏をお願いしている金森さんと桃井可子さんの四人に過ぎない。半井あや子さん、中島やゑ子さん、後藤田鶴子さん、藤本政子さん、大久庭和賀さん等々はつきぬ思出のある忘れ得ぬ人ではあるが、其後どうしておられる事か。半数以上の人がセーラー服におカッパか或はオサゲガミ。パーマネントウェイブをかけておられる方が五名。その当時はまだジュニアの名を冠せていなかったがその実は正にジュニアであった。 眞中に右から徳山さん(ピアノ)、清水勝雄さん(セロ)、鷲見五郎さん(ピアノ)、毛利先生(小学校教頭)、それに三輪先生が坐っておられる。清水さんは三輪先生の紹介で特に出演して頂き、徳山さんがその伴奏であった。曲はサンサーンスのチェロ協奏曲イ長調でアンコールがジョスランの子守唄であった。鷲見さんは数野さんのピアノの先生だったので数野さんからお願いしてバッハのシャコンヌを弾いて頂いた。五六十名の割れんばかりの拍手に報いてひいて下さったのはショパンのノクターンだったと思う。それに我々の音楽会は又研究会ということでもあったので特別出演して頂いた方にはその演奏曲目に対する解説をお願いした。鷲見さんは話すのが下手だからと仰言ったので愛弟子の数野さんが代って口上役をおつとめになった。どんな説明だったか木戸番に坐っていた僕にはとんと思い出せない。三輪先生に歌って頂くのはこれが始めてだったので僕等の期待は大きかった。Rシュトラウスの献呈、シューマンの二人の擲弾兵、ワグナーの夕星の歌。会が一時過ぎから始まったのだが、その直前プログラムを書き乍ら、Rシュトラウスの献呈なんて曲があるかいと、知ったか振の池田君、数野さん、佐原さんが首をひねり、これやシューマンの間違だよ、などと大きな事を云って危くプログラムを訂正しようとしたなどというエピソードもあって、先生のバリトンソロは素晴しく好評だった。けれどもアンコールに歌って頂けなかったのは、会員のみならず列席のお客様にとってもまことに一大痛恨事であった。 この音楽会では所謂ステージと称するものはなくただ部屋の一方にピアノがあって、その周囲が空所になっているに過ぎなかった。演奏して頂いた鷲見さんや清水さん、或は、先生も別室控室などというものはないので、自然、お客様方とまざってきいて頂くと云う形をとった。十七八世紀の音楽会の様子を、絵画や、映画で見ると大体こんな状態であったらしいが、我々のコーラスを意識的にこう云った形とその雰囲気を取入れる積りだったのである。所が、後で伺った話によると鷲見さんなどはひどくあがり気味でとても弾きにくかったのだそうだ。我々素人が臆面もなくがなり立てているのにこういう専門家の方々があがり気味だったとは変な話だが又、わからない事でもない。 それ程雰囲気が家庭的で、所謂職業的ではなかったのである。事実、お二人共とても御機嫌よくお帰りになったのだから。但しお礼はほんの足代でこれは前に書いた全予算からおして適宜御推量下されば宜しかろう。我々のコーラスは四曲だった。伴奏は桃井可子さん。 おゝ森よ ・・・・・・・・・・・メンデルスゾーン 早 春 ・・・・・・・・・・・ 〃 楽に寄せて ・・・・・・・・・・シューベルト 美しく青きドナウ ・・・ヨハン シュトラウス 練習時間は充分にあったし、ただの四曲だったので、どれもこれも、殆んど暗譜して了っていたから比較的スムーズに歌えた。「楽に寄す」などバスの半音階的上昇が気に入ったとて、三人のバスボーイ大いに感激していたが、事実この曲が最も好評のようであった。但しコーラスだけはいかに拍手が多くても、おまけの一つの出せないのは、いつもの事乍ら残念である。佐原さんの開会の辞、毛利先生の挨拶、数野邦治さんの閉会の辞。不慣れのため、どもりどもりだったようだが、とにかく第一回目の研究発表会は頗る盛況裏に終えることが出来た。写真屋が出張して、黒幕をたらし、星をちりばめた背景を同じく写真のバックにして撮ってくれたのがこの写真である。清水さんと鷲見さんが大きな花束を抱え、その後に半井さんの妹さんが立っておられる。六人のおのこがやれやれ終ったわいと云う顔ですましている。 池田君がなごりおしそうにピアノに手をふれている。先生の蝶ネクタイが、だんだん大きくなってくる。 (次回に続く) |