東京ジュニア・コーラスの歴史   天ヶ瀬 恭三
(第五回)
LaLaLa No.22
  (七)
 一九四七年の十月にすばらしい成果を修めえた、われわれジュニアコーラスの第一回研究発表会が終ってまもなく、三輪先生が毎日音楽コンクールの予選をパスされて、本選に出場されるということを聞いた。本選に出られるようになるまでは、君達に黙ってたんだよ。落ちたらみっともないからね、と先生はいっておられたけれども、何だか馬鹿にあっけなかった。もっともそれだけに、先生が本選まで無事通過されたことが、いわば自明の理であり、当然のなりゆきだと思わせるには効果的だったのかもしれない。先生が、幡野岑子女史、城須美子女史、石津憲一氏などを向こうにまわしてお歌いになったのは、十月に我々の発表会で歌って下さったのと殆んど同じ曲であった。先生の目が日比谷公会堂の天井から、時々、二階正面前列に陣取っている我々に向けられるのを意識しながら、何かしら誇りに似たものを感じて、しらずしらずの中に、他の出場者と比較していたが・・・・。その先生が第二位であった。我々のコーラスが第二位になったような錯覚がした。

  (八)
 一九四八年、昭和二十三年は我々にとってまさしく波瀾万丈の年であった。暗黒の時代中世が先生の登場によって一条の光を見出し、いわゆるルネッサンスのけんらんたるユニバーサルマンを輩出したとみるか、その後に続いたものは、旧きものと新しきものの闘争、当に文字通りカトリックなもの(正統的、普遍的なもの)とプロテストするもの(反対するもの)の軋轢であった。ドイツの三十年戦争、フランスのユグノー戦役、イギリスの名誉革命等、十七、八世紀のヨーロッパがこのような宗教的戦争の試練をへたのと同様に、わがコーラスも混沌たる渦巻の中に落ちこんでいったのである。やがては新しい、力強い民主的文化の生長を見るために・・・・・。
 世のならいに従って申すならば、現状維持的、封鎖的、そして超観念的理想論は、結局旧きものであり保守的である。旧きものは所謂伝統派であり、その意味おいて理想派であり、趣味的である。又内面的精神的である。高きものは、所詮深きものと相通じ、且そこにおいて獲得さるべきものである。外面的拡がりよりはむしろ、内面的深みにおいてこそ理想的なもの、美しいものが見出されるのである。いわば中世的と呼ばれる世界観の支配する領域である。それに反して、新しきもの、進歩的なるものは、大凡発展的、外交的、物質的現実論なのである。美とは、善とは、更に生とは、拡がろうとし、制作しようとする側において存在している。社会という集団の中へ自己を拡大していくことによって、より生成的であると観じ、より文化的であると思うのである。中心を失って漠とした人間が、一個のモナドとして社会ちょう有機体の中に還元されていくのである。そしてどゝのつまりは、そこで消えていってしまうか、あるいは、よく云うならば昇天して行くのである。いわば十九世紀的近代と呼ばれる世界である。  文芸復興期から現代に至るまでの種々様々の変転が、そのティピカルな姿でわれわれのコーラスにもおそって来たのだと考えればよい。いさゝか大げさな言い方ではあるがドイツを一八七一年に至るまで荒廃のままに放過せしめた、あの三十年戦争がわれわれにもやってきたのだと考えればよい。
 ことのおこりはこうである。
 この年の始めだったと思うが、放送局から一つ素人コーラス団として出演して見ないかという勧誘があった。現在の我々ならば、恐らく二つ返事でこれに賛成するところであろうが、まだやっとその地歩を固めたばかりの当時においてはこれは一大問題であった。我々はプロなりや、アマなりや・・・・。冷静に考えて見れば、一体プロとアマの区別とは何のことなのかきわめてあやふやなわけ方であることに気がつく。プロが上手でアマが下手なら、上手になること、いゝかえればプロになることこそ我々の目的ではないのか。プロがより芸術的でアマがより趣味的であり、しかもそれが相反するものならば、芸術的趣味ということはそもそも一体何者なのだ。金もうけがプロで、奉仕がアマなら、アマこそ真の芸術家ではないのか。更に趣味によって幾分でも生活の糧が得られるならこんな結構なことはあるまい。生活の糧をうれば、その芸術は堕落するというならばその答えは、正しく『そりゃおめえさんのことだろう』というより仕方がない。とにかく、当時は我々はアマといゝ、プロという漠然たるカテゴリーによって議論していたのだということが出来る。放送に出演すればアマの堕落でありプロ化である(!)と断じたのもおかしければ、それによって、我々が一躍発展したと考えるのもおかしかった。いづれにしても我々のコーラスにとってはほとんど問題にならない程、些細なことがきっかけとなり、実際的な面ではこれ程影響の大きかったことはない。身体的には佐原、数野のコンビがその為に割れ各々その一族郎党を率いて分裂しようとしたのである。勿論問題はただ単にこの一事につきるわけではない。しかし結局は先にのべた保守派と進歩派の分裂であった。大島イズム対佐原イズムが更に発展してこゝに至ったわけである。ただこゝでは一概に佐原イズム対数野イズムとして言表することは妥当ではない。もっと複雑したものが、放送反対派 対放送賛成派としてあらわれたのだと言うにとどめよう。ここで先生の立場にふれるのは、はなはだ僭越だが、先生は常に中立であったこと、幹事連の議論の末、統一された方向に、いつでもお力添え下さり、協力して下さったことだけ明記しておく。  この混乱の解決は一方の側、つまり放送反対派の退会ということでけりがついた。たださえ少ない会員がこれで激減した。三月末の予定であった放送も自然お流れとなった。練習も何となく趣がなくなり、毎回の練習日――それでも毎日曜の練習は欠けたことがない――は閑古鳥でも鳴くかと思われるばかり、寂漠たる有様であった。四月、両幹部の辞職後、池田君と僕がその後釜に坐った。池田君はともかく、浅学非才、未然なる僕がその片棒かつぎでは到底この危機を乗りきるすべもない。先生をむりやり水先案内にお願いして、すこぶるあぶなかしい航海が始まったのである。
 五月中旬、今まで何度も断って来た放送出演の話が又再起した。もう残っているものは放送賛成者ばかりなので今度は立どころに出演と決定した。ところがこの出演は実は普通のコーラス発表とはいささか趣きがちがうのである。即ち放送劇の効果としてのコーラスに出演するのだ。曲目未定、向う様の話ではきわめて簡単なものだから当日来て下されば、そこで楽譜をお渡ししますとのこと。出演日、五月三十日。当時日曜の第二放送、午後四時から新版オトギ噺シリーズというのが毎日曜放送されていたが、その“新版カチカチ山”に我々がでるわけである。えいまゝよと玄人あつかいをされた気分を満喫しながら放送局に出向いたところ、例の第一スタジオでほいと渡された二枚の楽譜には正直なところ手も足も出ない。岩田専太郎氏が指揮する東管にあわせてもやもやと歌うより致し方なし。お上りさんらしき見学者の前では、今更どぎまぎするのも業腹だし、さりとてシッポはいやおうなしに出ているし。巌金四郎やコヤマゲンキなど先生方を目近に拝見して、ふるえる声で丁度三〇分、熱演の末、それでも一人なにがしかの出演料を貰って帰って来た。歌った曲は放送局を出たとたんに忘れてしまったが、何んでも滝廉太郎作曲の流行歌まがい、童謡まがいの歌と、ハミングだった。行った人数は十四五人だったろうか。たった一回のテストで本番。東京ジュニアコーラスの名が初めて世に発表されたのもこの時である。あやふやな記憶をたどって見れば、たしかあの時のアナウンスでは「合唱、東京ジュニアコーラス」といっていた。そうすればこの名は昭和二十三年の一月から五月迄の間につけたものになる。話は前後するがこの名前は会員の推薦した名の中から投票で決められたのである。コールフロイデとか、パン合唱団とか、青空コーラスとかあった中で、三輪先生御推薦の東京ジュニアが当選したのである。その東京ジュニアコーラスという名が初めてこの放送によって世間に発表された。思えば意義深き放送である。結局は金を貰って放送局見学をしたようなものではあったけれども。(付記、それ以前は奥沢小学校同窓会文化部音楽同好会という名であった。)
  (次回に続く)