東京ジュニア・コーラスの歴史   天ヶ瀬 恭三
(第六回)
LaLaLa No.23

  (九)
 分裂と、放送局見学とをへて、わがコーラスはますますチンマリとまとまって来た。十人内外の常人メンバーは、私たちのコーラスを大きなものにしようなどという希望を、一まずしまいこんで、現状の惨憺たる集いを出来るだけ楽しいものにしようとした。各パート一名ずつになっても、皆嬉しそうに新しい曲をこなして(?)いった。私ごとをさしはさんで、はなはだ申し訳ないが、僕にとってはこの各パート一人時代が、大変いい修行時代になった。人にたよれないので、自然、又必然的に読譜力を養わなければならなかった。パート練習、すなわちソロでは、何といっても見栄も手伝って他人に、正に他人に負けられないと思ったのも宜なる哉である。それにほんの四五人では、一つの曲をどんなに練習してもコーラスとしては発表出来ないから、次から次へと新しいものにぶつかった。専らポピュラー合唱曲集の黄色い方をやったようである。
 平常の練習を除いては何することもないので、夏休みになったのをに、同勢先生を含めて八名が箱根に遊びに行った。場所は仙石原。三泊四日の日程で自炊。晝といゝ、夜といい、家の中だろうが外だろうが、風呂の中、車の中、舟の上、いたる所で八名の大合唱をくりひろげながら、実に有意義な懇親旅行をすることが出来た。外輪山の影を落した芦の湖の上を、湖上の麗人ならぬわれわれの歌声が高く低くすべっていった夢の世界。静かに下りてくる霧雨も一情趣を添えて、ハルモニアの口が広がって行く。おお、アポロンの神よ、ムサの女神よ、おん身をこそ、我は恋うるなり、陶酔の中に。

 そろそろ秋にならうとした頃。敗戦後三年目の秋を迎えたころ。
 あらゆる伝統的な支柱を失って、しかも絢たる音楽の復興を目のあたり見た若人たちが、自らの手で、自らの理想をかかげて、一大芸術境を建設しようとした、正に絶賛に価すべき大偉業。巣鴨の一隅よりもり上った「新しい村」の運動に、われわれコーラスが諸手をあげて参画し、一躍勇名を帝都にはせんとしたのである。いささか沈滞気味のコーラスに生気をふきこんでくれた冷風だったのである。夏の遠足はやって見たけれど、本職のコーラスの方が、相も変らず、ささやかな集いを続けるに止まっていたのだから、この最もダイナミック≠ネ運動に、渡しに舟と飛びついたのも当然である。
 この運動のことに、あまり多くの紙面をさくことは、わがコーラス史より見れば一種の外史となるので、出来るだけ簡単にするつもりだが、それにしてもこの間のは当時の我々にして見れば、大問題だったり、あわよくば、楽団にデビューしてやろう、と云う野心があったのかも知れないのだから、一寸したエピソードにはなる。巣鴨に出来たこの運動は、結局、オーケストラを組織し、同時に大合唱団を作って、第一回公演としてベートーベンの「第九」を演奏するということだったのである。「たかのは交響楽団」「たかのは合唱協会」がその名で、ここから三輪先生にバリトンのソロとコーラスの指揮を依頼に来たのがそもそもの始まりであった。演奏会場は大隈講堂、曲名はベートーベンの「第九交響曲」近衛秀麿の「越天楽」。こりゃおもしれえや、と云うのが僕等の本心であった。ドイツ語で「第九」のコーラスが出来るとは、悪かネエ。しかもオーケストラ附だぜ、やろうじゃネエか。
池田君が何度か巣鴨へ出張して、主催者側と打合せをした後、この練習がはじまった。練習場は原宿の元海軍館、現在はどうか知らぬが、その当時社会厚生専門学校と称していた所で、日曜日の午後には皆ぞろぞろと出向いていった。オーケストラの方も、同時に練習を開始していたが、そちらは一向に陣容が整わぬらしく、あいつがファーストぢゃ俺はひかネエとか、うるさいことだったらしい。何しろ棒を振ろうとなさった人は、山田和夫さんのお弟子かなんかで、何とかおっしゃる、さるやんごとなき方の御子息だったのだから無理もない。
コーラスの方こそ、すごく歌いにくい(!)のも克服して一通り練習したのに、そちらさんは一小節だって合わせたことがあったのかどうか。
 一方でこんな話があった時、来る奥沢小学校の創立十五周年記念日に、我々も参加して欲しいと云う話が追っかけて来た。これは殆んど既定のことであったし、喜んで参加の意を表明したから、その頃の練習はずい分重労働だった。午前中は小学校の音楽室で、アカペラと青きドナウなど歌い、すぐその足で午后は原宿。それにも拘らず、原宿に行ってみれば今日は練習中止などと云うことが、ポツポツ始り出した。マネージャーが忙しそうにとびまわっていたが、結局オーケストラの方がそろわないのか、どだいやることが大きすぎたのか、われわれがやっとなんとか歌えるようになった頃には、「第九」をとりやめて「メサイア」をやると称し、更にはコーラスは不要、オーケストラだけで「アイネ・クライネ」なんて、勝手なことを云い出した。何いってやんでェ、俺たちはどうしてくれるんだい、原宿までの車賃ぐらい出しやがれ、とほざいているうちに、よどみに浮かぶの如く、この運動は消えてしまい、このエピソードは幕になってしまった。
 終わってみれば本の木阿弥「第九」の楽譜が手に入って、何んとかこの曲をおぼえたのがせめてものもうけ。過ぎた事を非難するよりも、目前には十五周年記念日への出演がひかえている。夢だったのさあれは。いい気になりすぎたのさ。名論卓説に一寸ばかり色をそえたのさ。ざまあみやがれ、一日や二日でそんなことが出来るもんか。こちとらは三十年計画でござんすからね。あばよ。

 奥沢小学校創立十五周年記念の時は、次のようなプログラムであった。
         ピアノ伴奏 佐 原 節 子
一、 波のすさび    ドイツ民謡
二、 森と別るる      メンデルスゾーン
三、 ワニータ     ノートン夫人
四、 楽に寄す      シューベルト
五、 青きドナウ     シュトラウス
  いわば、可もなく不可もなし。

 模作して求めるものを得ず、混沌のうちに過ぎ去ってゆく一九四九よさらば。  (次回に続く)