東京ジュニア・コーラスの歴史 天ヶ瀬 恭三
LaLaLa No.24 (第七回)
(一〇)
波乱多き一九四八年よさらば、などときざっぽいジェスチュアと共に忘年懇親会を終えて、さて来年は、と思ったその日、一九四八年十二月二十六日に 放送局から「一ガ ツ八ヒホウソウタノム」なる電報がとどいた。何はさて、出演せねばならないこの放送の為、池田君が、先生のお宅や折角冬ごもりを はじめた会員諸兄姉のお宅をかけずりまわり、早早二十八日頃から一九四九年度の活動を開始した。 放送局の話しによれば一九四九年から新しく素人コーラスの時間を、〞私達の音楽〞という時間に編成したということであった。何しろ土曜日の午后四時第一放送というのは少しばかり優遇しすぎた嫌いがないでもない。その第一回に我々東京ジュニアコーラスが抜擢されたということは、放送局が我々に対して少なからず負目を感じていたという点もあるにはあった。前々から放送を頼むなどと言いながら一向にラチのあかなかった事、及び申込んで来るのが非常に突然であった為、我々が度々断わったこと、又やっと話しがきまれば、この前書いたような、いかさま放送劇の効果であったこと、等々であった。もっとも放送局とのいきさつがスムーズでなかった原因は専らわれわれコーラスの内部が例の如き状態であったことにその大部分を負っているにもかゝわらず、知らぬが仏の放送局が、いさゝか下手に、われわれを持ち上げてくれたのだから、まるで素人ではわれわれが第一級であるかの如き錯覚におちいってしまったのも宜なる哉である。たゞでさえ自惚れのつよいわれわれが、蟷螂相手にいばって見たところで、所詮喜劇でしかありえないことを重々承知していながら、しかもなお、この喜劇をあえてくりかえそうとしていた気持ちこそ、深いシンパシーと共に眺めてやっていただきたい。 大晦日と三ヶ日位はいくら何んでも休むことにしたが全く正月休み返上で稽古した歌は 波のすさび ドイツ民謡 森と別るる メンデルスゾーン 菫 ベリーニ 逍遙 ツェルエル 早春 メンデルスゾーン ワニータ ノートン夫人 楽に寄す シューベルト 青きドナウ シュトラウス の八曲であった。それぞれ今までの練習で殆んど出来上っていたのだが、いわば最后の磨きをかけるばかりになっていた。例によって池田君がストップウォッチで時間を計算した結果、たっぷり三十分かゝることがわかった。始めての放送が三十分とは一寸荷が重かった。「ラララ」の前身である「東京ジュニアコーラス会報」が号外を発行して会員諸兄姉の奮起をうながした。 何だか一向に自信のつかないうちに正月八日になってしまった。一応テストをやるというので二時頃外務相よりの裏玄関に集合し、それぞれ緊張したような、そのくせ、こんなことぐらいなれているんだぜというような顔つきで、大理石づくりの床で滑らないよう、細かい神経を使いながら第四スタジオにはいる。冬のさなかだというのに暖房装置と興奮の為、皆んな上着をぬいで赤い顔をしている。一遍歌って見ようということになって、いくらか本盤の為に力をセイブしながら、タクトに合わせていると、係の男女数人がいかにもめんどうだといわんばかりに事務的に時間を計ったり、マイクの位置をかえたりしている。テストの結果、プロデューサーが一寸時間が超過するから、どれかはぶいてくれという。しかし折角練習したのを省くのもしゃくだから〞菫〟と 〞逍遙〟を一番だけでやめることにしていよいよあとは本盤だけ。その間にトイレットに行ったり、物めずらしげに局内をぶらついたりしたが、いざ本盤という時になってまだ戻ってこぬ輩がいる。あわてた男が駆け出して大理石を思い出さず、いやという程尾骶骨を打ちつけたり。 その日の出演者は丁度二十名、伴奏は佐原節子さん。弟分の正氏は伴奏ばかり気にして歌う方がそっちのけ。防音装置のせいか、小さい部屋のくせに全然反響のないもどかしさ。咳ばらい一つ禁止されているいゝようのない圧迫感。先生のひたいにたれさがっている長髪だけが意味もなく踊っている空虚さ。 終わってみれば局側の八十点という評価をまあまあと思いながらも何だかそんな馬鹿なという気持をおさえられなかった。手のひらも背中も冷汗の為シットリ。帰り際に第一スタジオで土曜コンサートの一部を聞いてきたが、チャイコフスキーの第四交響曲で第三楽章の弦のピッチカートに依るスケルツオが何んとなく印象的であった。 放送が終って一週間ぐらいしてから、嘗って奥沢に住んでおり、非常にこのコーラスに好意を持っていて、今は茅ヶ崎に住んでいる人に会った時、その人がこう云うのである。『あの放送の日茅ヶ崎の駅をおりて家へかえる途中、家々のラジオで「青きドナウ」が聞えるのさ。 奥沢のコーラスがよくあれを歌っていたなあと思っていたら、後でまぎれもなくその奥沢のコーラスが歌っていたのだとわかって驚いたね。』何となく嬉しくなるような感じである。 (一一) 流れる石には垢がつかない。垢がつきそうになると適当に流してやることが必要である。小人閑居して不善を為すならばわがコーラスも停滞して何の善を為すものぞ。気分のいいところで早速、五月には発表会をやろうと話をきめた。形式は第一回目の発表会と同様。コーラスとしての出し物や、客演など、種々協議の末、大凡の目安がついた頃、奥沢小学校の方でも同じ頃、ピアノ購入資金募集の名目で音楽会を開く準備が進められていた。当然われわれコーラスもそれに一役買うこととなったが、いつもやるとなれば二つぐらいかさなって、どっちつかずとなることよってくだんの如しである。 政策上われわれの発表会が先手を打って五月二十九日(日)と決定。客演は目先を新たにする意味で女性ばかり。池田君のいつもながらの強心臓が功を奏して有楽座の楽屋で、フルートの林リリ子さんをつかまえ、アッサリ交渉成立。続いて奥沢にお住いのメゾ・ソプラノ別所恵子さん、及び奥沢住人ではないがピアノの石川治子さんを、それぞれツテを求めてOK。 ところが肝心のコーラスの方は選んだ曲がこれまた難曲ぞろい。放送後の中だるみが起りかけたころに始めたものだから毎週の練習日には出席者きわめて少数、しかも放送で八曲歌っても平気だったというまことに安直な理由から今度も九曲歌うことになったのだから大変である。放送のときはそれでも一応前に練習済みのものばかりだったのだが、今度のはみんな新しくやるものばかり、その中にはピアノ伴奏つきの所謂大ものが二曲も含まれている。「カヴァレリア・ルスチカーナ」の変にカノン風な幕あきの合唱「オレンジの花咲く頃」など到底われわれの力では無理だと思われるものまでプログラムに組んでしまった。まあこの曲目を御覧候え。 遠き友 メンデルスゾーン 別れ ドイツ民謡 うぐいす メンデルスゾーン アヴェ・ヴェルム・コルプス モーツァルト オレンジの花咲く頃 マスカー二 歩け若もの ドイツ民謡 あかがり 信時 潔 五月の歌 メンデルスゾーン 舞踏への招待 ウェーバー 一々あげつらうまでもなくどれもこれも一くせありそうなものばかりである。しかも出演者はたったの十五人。発表会当日の惨憺たる様子が今だに目に浮ぶ。ウェーバーのはピアノ独奏にコーラス伴奏と云った格好だったし、うぐいすはまるで百舌鳥そこのけ、「五月の歌」に至っては転調のところで何が何だかわからなくなってめちゃくちゃ、それでもまさか止めちまうわけにもいかずソプラノのソロが出るところまでかく申す僕は口だけ動かして声が出ない。とにもかくにも先生がお気の毒で・・・・・。開会の辞で、勿論技術的には充分の域まで達してはおりませんが、その意のあるところを云々と言っておいたものの、いくらなんでもこれじゃひどすぎたと、閉会の辞をかって出るもの誰もいないという有様。まあいささか針小棒大の嫌いはあっても凡そ、このような成果であった。伴奏は前回と同様佐原節子さんをわずらわした。 最後に客演して下さった方々の演奏曲目を参考までに書いておこう。 一、フルート演奏 林リリ子 伴奏 林 光 ハンガリア田園幻想曲 ドップラー ポロネーズとバディネリー組曲二番 バッハ ヴェニスの謝肉祭変奏曲 ジェニー 二、メゾソプラノ独唱 別所恵子 伴奏 石川治子 汝こそ我が女王 ブラームス 墓場にて 〃 甲斐なきセレナーデ 〃 愛の歌 〃 三、ピアノ独奏 石川治子 ピアノ奏鳴曲嬰ハ短〞月光〟 ベートーヴェン 奥沢小学校PTA主催のピアノ購入資金募集の音楽会はその一週間後に開かれ、我々コーラスも客演としてステージに立ったが、これは更に輪をかけた醜態振りを披露した。蓋し言わぬが花。 (次回に続く) |