東京ジュニア・コーラスの歴史   天ヶ瀬 恭三
LaLaLa No.25
(第八回)
  (一二)
 惰性だけで持って来た、といったら語弊があるかもしれないが、昨一九四八年の此頃と一向に変わりばえもなく、人員の上足を歎きつつ、しかもそれに対する何の処置もとらずに平々凡々のうちに月日がたっていく。研究発表会や客演をやって見たところで、当座は何んとか形がととのっても、そのあとは又々五六吊のコーラスに逆転。もっともこの頃になって見れば当座の形だけでも、ととのえられるかどうか、はなはだ危い。理想がどんなに高くても情熱がどんなにその焰を燃やそうとも、一個の人間ならいざ知らず、少くも何吊かの会員を持つ合唱団と云う社会においては、或る程度までの形がととのってしまえばもう二進も三進も行かぬ。歌を唱っておれば、あらゆる現実的な障害も乗り超え得ると思ったのは、いささか早呑み込で、現実的な障碍が、歌を唄うことの楽しさを奪ってしまうようではもはやお話しにならない。内部の対立などがある間は活気があると云えるが、それすらなくなった後では、きまりきったのみ眺めて、正にせんすべもない。発展的な方向がしめ出された以上は、月並に堕するか、或いは月並を排して、時には雉の舌や、トチメンボーでも食いに行くより仕方がない。御一新前からのヨーカン色をした羽織の紐をひねくりながら、首つりの力学など研究しようと考え出したのもこう云う心理からなのかも知れない。
 古橋選手がロスアンゼルスで世界新記録を出している丁度その時、我々は奥多摩をぶらぶら散歩していた。去年のように箱根行など計画はして見たが、参加者が少ないのと、全般的に乗気薄なので日帰りの遠足としたわけである。トチメンボーを食いそこねてメンチボールを食わされたようなものである。
 コーラス団一般についてはどうか知らぬがわれわれのコーラス団がいつの間にか動きのとれないどん底にまで来てしまっていると云うのは大部分が幹事のセクショナリズムに由来していたと思う。セクショナリズムと云うものはそれ自体大変居心地のよいもので、先ず大部分の会がこのイズムによって支配されることは間違いない。これが余りにも居心地のいいために、いささか良心の苛責を覚えた連中がこのイズムを排斥し、更に解放的であることを声を大にして叫ぶ。しかし声を大にして叫ぶだけで、大部分の場合、その具体的な手を打たない。なぜならば具体的な手を打つ丈の仕事をするなら自分達のセクトを、益々セクト的に固めた方がはるかに楽だし、又気分もいいからである。声を大にするのは単なるジェスチュアだけだし、もう少し同情的に解釈するなら、一寸ばかり気がひけるからなのである。他の場合はいざしらず、我々のコーラス団は正直なところこのセクトの雰囲気に適当に酔っていたと云ってもいい。
 ところがセクショナリズムなるイズムは、実はそれ自身のうちに確かにある限界を持っているものと思われる。外部からの働きかけによってではなしに、内部的に必然的に一つの矛盾に逢着するようである。大体気分的とか情緒的とか云うようなあやふやな言葉で、萬事を推進しようとするのは、云いかえれば怠慢の故になんにもしない、と云うことと同義である。一つの仕事を自分のものにして完成しようとする以上は緻密な計画性とそれを継続しようとする異常な努力がなければならぬ。こういった計画性と努力なしに、所謂気分と情熱で事を運ぼうとするのは、当然のことながら、セクトを形成し、それにとじこもろうとする方向に働く。何もしないで怠けていること、即セクショナリズムである。いくら口先だけで門戸開放を云々して見ても気分が支配し、計画性がおしやられている間は、何の進歩も見られないのは云うまでもない。このことは結局、セクトがその当初は大変居心地よきものであったにもかかわらず、いづれこの為に甚だつまらない味もそっけもない集りと変えて了う理由なのである。いかに美味いチューインガムでも三年もかんでおれば捨てたくなるのと同じ理である。確にセクトなる隠家は初めの一二年は最も快適な場所であった。それがなくては何物も育たないと云ってもかまはない。けれども四年目ともなればそれは邪魔にこそなれ何の魅力もなくなってくる。白痴でない我々は上幸な事には単純と云う事にいい様のない嫌悪を感ずる。然も天才ならざる我々はその事にまだ気がつかない。もう駄目だ、だけどそのうちに何とかなるよ。これじゃ何ともならない。

  (一三)
 例によって例の如く一九四九年を送るに当って研究発表会を開こうとゆう事になった。第一回の発表会(一九四七年秋)の時、大変気分がよかったとゆうので同じ様な形のものをこの年の五月に催し、あまりうまくゆかなかったから吊誉挽回の意味でもう一度やって見る必要があった。今迄やった曲を一通り整理して了う都合上未発表のものばかり十三曲、出演する人数と殆ど同じ位である。
 プログラムを次に掲げる。
  第一部
A コーラス      指揮  三輪冨康
 a 夕の鐘  b マドロスの歌 c 晩秋
 d 夜の窓辺に(以上民謡)
 e アヴェマリア(アルカデルト) f 合唱賛歌
B ソプラノ独唱     松本俊枝 
 a 理想の佳人(トスティ) b 歌劇「椿姫」より ああそは彼の人か、花より花へ
  第二部
A バリトン独唱    三輪冨康
 a ガニメード    シューベルト
 b 秘密           〃
 c 魔王          〃
B コーラス      指揮  三輪冨康
 a 白バラの匂う夕   ネーゲリ
 b 紅葉狩       ウェーバー
 c 蓮の花       シューマン
 d ばら咲く丘     グスタフ
 e 夢         シューマン
 f 稜威        ベートーベン
 g ハレルヤコーラス  ヘンデル
    伴奏 三輪愛子 桃井可子

この時出演したわがコーラスのメンバーは、女声―島崎さん、吉井さん(現在の会員吉井嬢の姉上)、田中さん(三輪先生の姪御)、小生の妹、その他今はお出でにならない方々六吊。男声―池田君、千葉君、小城君、椊木君、野口君、小生。佐原さんは、この日はお務めの都合上止むなく上出場。計十五吊。
 丁度ゲーテの生誕二百年祭になっていたので三輪先生にはゲーテとシューベルトのタイアップした曲を歌っていただいた。
 地味なうちに美しさを求めよう、などと池田君は云っていたが、コーラスが余りにも弱体であったのでなんだか印象のうすいものになって了った。

 池田君と小生がマネージメントをつかさどった二年ばかりは、文字通り現状維持に腐心して、却って袋小路に入りこんでしまったような結果になってしまった。よきオブザーバーであった佐原さんは、やたらにお仕事がいそがしいらしく、世間は丁度冬がれの電気危機でもあったので、お休みが木曜日で日曜の練習には殆どお出にならない。
 ともかく、はっきりした手を打とうじゃありませんか。このままでは立消えですよ。何はともあれ来年を期して、革新的な方法を考えよう、と云うあたりで年が暮れた。
  (次回に続く)