東京ジュニア・コーラスの歴史 天ヶ瀬 恭三
LaLaLa No.26 (第九回)
(一四)
一九五〇年(昭和二十五年)がやって来た。これで足かけ五年、正月を迎えること四回である。今年度の第一回の練習日は正月十五日であったが、その前々日、即ち一月十三日附で、われわれ幹事は会員諸兄に新年の御挨拶と称してビラをくばって歩いた。今そのビラから、此の頃の状態を知るに適当と思われるものを抜書して見よう。書いた者は恐らく当時のマネージャー池田君であろうと思う。 『明けましてお目出度うございます。一九五〇年の良き年をお迎えになった事とお慶び申上ます。昨年度は我がコーラスの最悪の年ではなかったかと思います。曰く〞人員の過少〟曰く〞不手際な発表会〟曰く〞連絡の不備〟等々。こう云う悪い状態において蝸牛の如き歩みながら、尚も目的に向かって一歩、否半歩なりとも進んだと思われるのは大きな収穫であると共に又我々の大きな喜びであると思います。』 歴史氏曰く、半歩たりとも進歩したと云うより、寧ろ時間の方が一年たったといった方がよい。 同じビラにお知らせ etc.として、 本年度第一回の練習は一月十五日(日)に致します。午前十時より、場所は今まで通り奥沢小学校音楽室。尚、九時半よりレコードコンサートを行います。 第一回の練習は曲目を一新して総て新しいものにかかります。 ポピュラー混声合唱曲集のⅡを御持参下さい。尚、印刷による別の楽譜もお渡しする予定です。 この機会に新会員の方を御紹介下されば甚だ幸と存じます。 尚、昨年度最後の集りの時の約束をお忘れなく。〞何だっけ?〟と仰言る方のために・・・・Xマスと正月を併せ祝い、会員相互にプレゼントの交換を致します。但し、そのものは金五十円也 のもので高からず安からず、成丈消耗品でない方がいいと思います。珍妙奇なるものをお考え下さい。 会報がぜんぜん出ません。七日坊主になりそうです。 一応、これに説明を加えて見ると、まず最初のレコードコンサートの件であるが、これは練習前の退屈な時間をレコードでも聞き乍らお過ごし下さいと云う、大変サービスのいい話なのである。昨年度から、少しづつやって見たがあまり効果があがらないので、その後立消えとなった。何しろ御存知のように練習時間が守られることすら困難な状態なのだから。第二の曲目については、昨年度までポピュラーの第一巻(黄色)ばかりをやっていたから、今年度からその第二巻(桃色)をやろうと云うのである。勿論、その他に所謂大曲やピース物も数多くやったことは云う迄もない。第五の会報云々は丁度先年度は七号迄出してあったというだけのこと。 因みに第一号は一九四八年(昭二三)十月十日発行で、わら半紙一枚裏表とも刷ったもの。名称は「東京ジュニアコーラス月報」といった。編集は、その奥付には池田、天ヶ瀬とあるけれどもその実は池田君一人でやっていたも同然である。その証拠には、あとがきに「最初にあたり三輪先生、天ヶ瀬君から玉稿を頂いた事を御礼申します」とある。 今年度の課題は〞人員の過少〟〞不手際な発表会〟〝連絡の不備〟という言葉を抹殺して了うことであった。そして具体的にこれらの点が如何に改良されるべきであるかということについて佐原さん、池田君などと相談をした。四年間の経験が、これらの問題を決して抽象的なもののままでほっておきはしなかった。そして決してこれらをただ単に情勢のみにまかせはしなかった。第一に手を打ったのは〝会員の大大的募〟〝コーラス事務の合理化〟であった。とは云え、実際に仕事をはじめたのはもう四月になってからである。 四月十六日附の会報を見ると、佐原正さんの「コーラス刷新に当り御挨拶及御連絡」と題する一文が第一面に載っている。 そこから重要な部分だけを抜抄しよう。 ∘ 四月中旬より新会員の募集を行い、四月三十日には新しい会員が私達の集いに参加されますが、これを機会に役員を改め、総務―佐原(旧池田)、会計―天ヶ瀬(旧後藤)、連絡及記録―池田(新設)の新しい体制で諸事務を分担することに致します。 ∘ 会報は毎月第一日曜日に発行の予定で六頁を原則とし、主な内容を示すと次の通りです。 一面 行事及連絡事項(担当 佐原) 二~三面 論文随筆等(会員の提出によるもの 担当天ヶ瀬) 四面 練習曲目の解説及歌唱上の注意事項(担当 三輪) 音楽会の紹介其他(担当 佐原) 五面 作曲家 演奏家について(担当 池田) 六面 あとがき其他(担当 池田) ∘ 五月より会費を三十円に致します。 ∘ 毎年四月に会員の募集を行う事に致します。今までは会員の紹介により随時入会すると云う方式で、指導の点からも又事務的な面からもやりにくかった様です。云々。 会員を募集する方法として我々の取った唯一つの手段は、例のヴェネチア云々とうたってあるビラを奥沢と東玉川の適当と思われる家へくばって歩くことだった。ただ単に適当と思われると云って見たところで随分いい加減な見当だが、これには我々はいささかの自信がないでもなかった。と云うのは約二年位、あるいはもっと長い期間、このコーラスの為にこの近辺は殆んど行脚しつくして、どこの家では歌をうたっていた、どこの家にはピアノがある、あそこには年頃のお嬢さんがおいでだ、等々微に入り細をうがって先刻御承知だったからである。とにも角にも、目ぼしいとにらんだ家、約五百軒からにビラを配って歩きながら、我ながらなんと酔狂な事だろうと驚ろいて見たものの、いわばこれが我々のとるべき最良の方法だったのである。十二三人のコーラスを一挙にして五六十名のものにしようと大望をいだいては見たが、その実はなはだ心細い限りであった。予定の四月三十日を、まるでバルチック艦隊を待ちうける東郷元帥のような心持で待った。いつもながら佐原さんのオプティミスムと池田君のスケプティスムが奇妙にかさなり合っていた。 結果は、佐原さんの方がより正確に予測していたと云う事になった。六十名は無理だったが、大体四十人位になったと思う。 音楽室が普通教室として使用された為、講堂を練習所としての第一回の集りが、この新しい顔ぶれであった。「歓喜の歌」が文字通り「歓喜の歌」だったのは、単に幹事達の感傷の故のみではなかったに違いない。 所期の目的が一応達成せられてからは比較的スムーズに事がはこべた。うちあけて申せば、折角集った方々をとも角はなしてなるものかと云う一点にだけ努力が集中されたのである。連絡を密にして一度でもお休みになれば、お葉書をさし上げるようにしたのも、会報を毎月確実に発行するよううにしたのも、はた又、コーラスアルバムを作る計画をしたのも、みなこの為だったのである。要するに、すばらしい、又楽しいコーラスにすれば自然去る人は減り入会する人が増えるわけである。合唱連名に加入して、合唱コンクールに出場しようとしたのは、その意味でこのコーラスがともかく一人前のものになろうとし、又既に一人前であることを天下に公表するためでもあった。いつまでも奥沢の片隅にくすぶっているよりは、いい加減に東京の中央へ進出して見たかったのでもある。雌伏十年もいい加減に打ち切ろうなどと得手勝手にきめては見たが、仲々世間はわれわれを雄飛させてくれる程甘くはないらしい。とはいえ、既にわれわれは正規のルールに従ってスタートする姿勢を自ら体得したと思うし、又自分の走るコースもわかったつもりでいる。世の中にはまだまだ小学生ばりの恰好でスタートしようとしているものがうようよいる。両手を軽く地面にふれて、尻をぐっと持ち上げている我が「東京ジュニアコーラス」の英姿を見たまえ。百や二百のレースではあるまい。何マイルものマラソンともなればいずれは一等になるであろう。いやならねばならない。新しく入会された諸兄姉を含めて、われわれ会員はそのダイナモである。而して先生はエレキである。幹事は須らくよきオイルたらねばなるまい。 あ と が き 歴史はどんどん作られていく。 書いても書いても追いつきそうにありません。だからこの辺で打切らせて戴きます。ただ屁理屈をのべるならば、歴史というものはやはり静かに振り返り見るものですから、あまりにも新しすぎるものはその範囲にはいらないのです。ヒストリアと云うギリシャ語は流れているものをとめると云う意味をもっているのだそうです。だからどこかで一つせき止める点をつくらないことにはヒストリアになりません。現実の問題に真向から切り込むものがフィロソフィアならば、静かに退いて過去を観想するのがヒストリアだそうです。その静観し得る限界を、勝手に東京ジュニアコーラスの歴史では、一九五○年の四月三十日にしました。あと五年もたてば、この限界は又五六年のびるに違いありません。何卒これ以后は会報(改名後はLaLaLa)にて委細御了解くださいますよう。 歴史氏敬白 尚、来月号には東京ジュニアコーラスの歴史年表を附録にしようと思います。 (次回に続く) |