京都・岩倉



岩倉具視幽棲旧宅






岩倉旧宅門



岩倉公 遺髪塚

岩倉具視が文久2年(1862)38歳の9月から慶応3年(1867)11月までの約5年幽居した建物が現存し、資料と共に公開されている。

場所:京都市左京区岩倉上蔵町
京都バス岩倉実相院 下車1分、叡山電鉄岩倉駅 下車15分


■岩倉具視(いわくらともみ)1825〜1883

下級公家に生まれ のち岩倉家の養子となる。関白鷹司政通に接近し、孝明天皇
の近習となり、政治家として活動を始めた。
安政5年(1858)日米修好通商条約の勅許を願い老中堀田正睦が上洛すると、
反対派公家88人で勅許阻止のため列参。この時朝廷での地位を築いた。
和宮降下の件では朝廷の権力回復の為にと、幕府と通じ孝明天皇を動かし強引に
実現させた。しかしこれは尊攘派を激怒させることとなる。
岩倉は官位を辞し、剃髪のうえ、洛外に追放され蟄居となった。
(文久2年〜慶応3年の約5年間続いた。)
その間にも密かに政治活動をし、倒幕急進派と接している。薩摩の大久保利通、
土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎らがこの宅を出入りし王政復古の密議を行った。
孝明天皇が没し、明治天皇が即位すると復職。
工作により「倒幕の密勅」が薩長に降りたが、徳川慶喜の大政奉還を朝廷が受理
し、先を越される。
しかし、岩倉主導で「王政復古の大号令」のを発し王政復古が実現。続いての
小御所会議では明治天皇の御前で「慶喜の辞官」と「領地返上」を主張し決定
させた。これにより徳川家は新政府から排除さるに至った。




三縁寺

- 池田屋事変殉難烈士の墓 -

贈従四位 吉田稔麿(長州)
贈従四位 杉山松助(長州)
贈従四位 北添佶摩(土佐)
贈従四位 望月亀弥太(土佐)
贈正五位 石川潤次郎(土佐)
贈従五位 広岡浪秀(長州)




贈正四位 宮部鼎蔵(肥後)
贈従四位 松田重助(肥後)



贈正五位 大高又次郎(播州)

上松源友胤(肥後)

池田屋事変殉難烈士の墓に並んでいる「上松源友胤」は宮部鼎蔵の弟子。
文久3年7月26日、二条家の親幕派公卿を斬った際、相手に重傷を負わせたもの自分も斬られた。
これを同士が密かに三縁寺に葬ったといわれている。


元治元年(1864)6月5日の池田屋事変で戦死した志士達の墓。

遺体を確認したのは池田屋女中頭 清水うの
とも、小川亭の小川テイとも云われている。  

三縁寺は東山区縄手通三条下ル大国町にあったが昭和54年(1979)、
現在地 岩倉に移転した。


場所:京都市左京区岩倉花園町
京都バス花園町下車





mapion

幕末京都倶楽部 2003年8月18日号
マガジンID:0000094183