幕末神戸
坂本龍馬が航海術を学んだ青春の地




神戸海軍繰錬所跡碑

(場所:海岸通り京橋交差点NTTビル前
神戸市立博物館を海側に下ったところ)


 

海軍操練所顕彰碑

場所:みなと公園(海岸通り、水上警察横)

JR・阪急三ノ宮駅から徒歩10分

 

 

碑の裏面には「海軍操練所や神戸に忘れられない人物」として次の4人の名前が刻まれている。

塾長 勝海舟 (海軍奉行)

塾頭 坂本龍馬 (海援隊長)

伊藤俊輔(博文)・(初代兵庫県知事、初代内閣総理大臣)

陸奥陽之助(宗光)・(兵庫県第四代知事、第二次伊藤内閣外務大臣)


 



網屋吉兵衛顕彰碑

場所:新神第一突堤入り口(みなと公園から徒歩5分)

 

網屋吉兵衛は、船底の貝殻や船虫を焼いたり、船の修理をしりする場所を建造していた。文久3年(1863)時の将軍家茂小野浜に上陸の際「この地は港に最適でございます」と進言、ち、勝海舟はその建物を利用してを幕府の海軍操練所とした。 




海軍営之碑

(場所:諏訪山公園



勝海舟が海軍操練所内に自ら撰文して立てた碑。
のち諏訪山公園に移動され現在に至る。

※海軍操練所のことを海軍営や海軍局、または海軍所などといい、海軍兵学校も兼ねていた。



和田岬砲台

三菱重工神戸造船所内


勝海舟の設計による砲台。
建設中に将軍家茂、一橋慶喜、姉小路公知も視察にきた。

元治元年(1864)建設。
直系約15m高さ11.5m。
費用は2万5千両。現在の金額でおよそ20億円もかかったという。

※365日年中無休で見学可(要受付)。正門で受付したら社用車で砲台の場所まで連れていってくれる。説明パンフももらえる!


関連情報:兵庫県の砲台




勝海舟寓居の地(豪商生島四郎別邸)

坂本龍馬も訪ねている。
(場所:祇園神社沿い)




祇園神社 生島四郎奉献の石灯篭



(場所:神戸市兵庫区上祇園町


勝海舟は世話になった生島に、「いまから神戸の土地をたんと買っておきな。将来は立派な港町になるぜ」みたいなことを話したというエピソードも残っている。




湊川神社


多くの幕末の志士が敬愛したという楠木正成の戦死の地。
楠木正成の墓がある。吉田松陰や坂本龍馬もここを訪れた。
(場所:JR神戸駅・地下鉄海岸線ハーバーランド駅北側、地下鉄大倉山駅南側





伊藤博文公銅像台座

初代兵庫県知事だった伊藤博文は大倉喜八郎の別荘を専ら利用していた。
「昼夜涼風不断、神戸第一の展望且避暑地に有之」
伊藤がハルピンで暗殺(1909年)されたのち、大倉は、伊藤の銅像を建て、公園として市民に開放する条件で神戸市に土地と別荘を寄贈し大倉山公園が開園する。戦時中、銅像は供出され台座だけ残り現在に至る。
(場所:大倉山公園内 野球場側


海軍操練所の敷地は上記の網屋吉兵衛顕彰あたりから水上警察、海軍操練所顕彰碑のを含めた海岸通り一帯で約17,137坪あった。

神戸市立博物館には
操練所の瓦(葵紋)が展示公開されている。

※坂本竜馬らが寄宿して海軍術を学んだとういう勝海舟屋敷(
海軍塾)は三宮センター街付近のダイエービルあたりとも生田通りビアホールミュンヘン神戸大使館前あたりともいわれている)


その他、幕末関係


神戸運上所跡
(碑などは無い。場所:神戸税関
現在の神戸税関本庁舎がある場所に神戸初の西洋式建物が建ち、そこで神戸開港式が行なわれた。


舞子砲台跡碑
勝海舟が設計した砲台があった場所。砲台建設には海軍繰錬所塾生も加わったといわれている。(場所:JR舞子駅南側、国道2号線マクドナルド横)


摩耶山(八洲嶺)

文久3年(1863)年摂津湾視察に来た小笠原長行は、摩耶山に登ったとき展望が非常にいいので「八洲嶺」と名づけたという。


居酒屋 竜馬
神戸駅前店(JR神戸駅 山側高架下沿い徒歩3分)
てのもあります。

 

 

神戸事件




神戸事件跡地

場所:三ノ宮神社

JR、阪急三ノ宮駅または元町駅から徒歩5分
神戸大丸斜め正面

 

 神戸事件

慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いが起こった。新政府は、徳川方である尼崎藩を牽制するため備前藩に西宮の警備を命じた。1月11日、その備前藩の部隊500人が西宮に向かう途中で三宮神社前にさしかかったとき、2人の外国人水兵がその行列を横断しようとした。迂回するよう命じたが言葉が通じず、やむなく隊長の滝善三郎はその一人を槍で突き、負傷させた。連れのもう一人の外国人が驚き短銃を出すと、滝は「鉄砲!鉄砲!」と叫んでしまう。これを発射命令と思った鉄砲隊が威嚇射撃をしてしまった。

その騒ぎで神戸にいた英国公使パークスは神戸港に停泊中の軍艦に信号を送ると、英仏米の兵士が軍艦から上陸、備前部隊を射撃した。備前隊は生田方面に逃れていった。

この事件で四ヶ国連合艦隊は日本政府に抗議書を送りつけ居留地防衛という名目で臨戦体制に入るという大事件に発展した。

新政府はまだ、政権が幕府から朝廷に移ったということを外国に対して宣言していなかった。急きょ1月15日、朝廷は明治政府に政権が移った事を表明、事件の交渉を開始した。

結果、部隊を率いた備前藩家老の日置帯刀は謹慎、隊長滝善三郎は切腹という事でで決着した。


滝は兵庫の永福寺で切腹、供養碑は「能福寺」にある。

 

 




当時と同じ型の大砲

(三宮神社境内)