小御所

京都市上京区京都御苑内
(春と秋の一般公開時等で参観できます)


小御所会議までの経緯。

慶応3年(1967)10月13日 「大政奉還」

15代将軍徳川慶喜は政治を朝廷に返上することを宣言。
これにより約260年続いた徳川幕府に終止符が打たれた。

桂小五郎(長州)は慶喜のことを「家康の再来を見るようなものだ」と語っている。
慶喜がこの機会を利用して、家康の時(1603年)のように新政権を樹立する可能性も大いにあると恐れていたのである。事実、慶喜は新体制において優秀な旧幕府官僚たちを中心に政治をするつもりであり、当時の朝廷(公卿)にはまだ政治で日本をまとめる力はないと考えていたのである。
慶喜はまた、ヨーロッパ留学経験をもつ西周から議院制や三権分立などが記された「西洋管制略考」や「議題草案」なども入手している。

慶応3年(1967)10月24日 徳川慶喜、朝廷に「将軍職」辞退の上書を提出

慶応3年(1967)10月26日 朝廷 慶喜に政務を委任の沙汰
朝廷は急に政治をおこなうのは難しいとの判断で、慶喜の将軍職辞退を保留した。
(この処置に対し武力倒幕派の薩摩藩や岩倉具視(いわくらともみ)は大いに不快感を表明。)

慶応3年12月9日(西暦1868年1日3日) 「王政復古の大号令」
早朝、岩倉具視ら倒幕派公卿、薩摩、土佐、福井、芸州、尾張の代表が御所に集まり、諸藩の兵約3000人により御所の9つの門を全て封鎖。反対派を完全に排除したうえで天皇に「王政復古の宣言」を求め、「王政復古の大号令」が発せられる。天皇中心国家への復帰が宣言されたのである。
従来の摂政・関白等の官職・将軍職・京都守護職等の幕府体制が廃止され、新たに「総裁」「議定」「参与」という三職が設けられることに決定した。これにより新政府が発足する。



小御所会議


小御所

王政復古の大号令が発せられた日の夕刻、御所内の小御所に関係者が集まり天皇の御前で新体制の話し合いが行われた。
土佐藩の山内容堂は、この会議に慶喜公を呼んでいないこと自体おかしく、王政復古宣言は一部の者の陰謀だと主張。これに対して岩倉や大久保(薩摩)らの慶喜排斥派(武力倒幕派)は反論できなかった。
しかし、山内容堂の「これは幼少の天皇を担ぎ上げておこなった陰謀であり・・」との発言に対し、岩倉は「幼少の天皇とはなんたることか!」と叱咤する。幼少でも天皇は天皇である。当時15歳だった天皇に対する非礼の発言をしたことに気付いた山内容堂はこれ以降黙り込むことになる。
あとは岩倉主導で、徳川慶喜の将軍職(政治の実権)剥奪、徳川家の領地返上などが議題の中心となり、その結果、徳川慶喜の官位一等が減じられ、幕府領約400万石のうち200万石の返上などが決定されることになった。



会議のはじめは山内容堂により慶喜排斥派は不利な状況となっていた。その長引いた会議の休憩時間中、御所警備にまわっていた西郷隆盛(薩摩)が一言「短刀一本でかたづきもす」と語ったといわれている。これが噂となって会議参加者の知るところとなった。命の危険を感じた容堂は休憩後再開された会議では沈黙した、といわれている。
この西郷発言に励まされ暗に力を得た岩倉は、自らも山内容堂を刺殺する勢いで会議に臨んだ。その気迫に危険を感じ黙ったともいわれている。





小御所会議以降、武力倒幕派の勢いは増し、やがて鳥羽伏見の戦いへと発展することになる。


参考:目からウロコの幕末維新(山村竜也著)等

(現在の「小御所」は、1954年(昭和29)鴨川の打上げ花火により焼失し1958年(昭和33)に再建されたものです。)



幕末京都倶楽部 2003年8月24日号
マガジンID:0000094183



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