孝明天皇・公卿

 

孝明天皇

(1831〜1866) 

嘉永6年(1853)ペリー来航時の天皇としてにわかに脚光を浴びた。夷人嫌いで知られ、幕府に日米修好通商条約の勅許を求められるが却下。これにより井伊直弼は無勅許条約締結に踏み切ることとなった。直弼暗殺後は、公武合体を進めるべく、妹の和宮と将軍家茂の婚姻を許可した。また公家の学問所である学習院を創設したが、三条実美など過激派により尊攘派志士たちの陰謀の巣となっていった。文久3年(1863)8月18日、薩摩・会津藩によりこれら過激派公卿は追放される。慶応2年(1866)疱瘡にかかり36歳で急逝した。

しかし、日頃丈夫な体質であった為、岩倉具視による「筆毒塗り暗殺説」・「厠刺殺説」や、「湯殿変死説」も噂された。


孝明天皇崩御

 

 姉小路公知

(1839〜1863)

尊攘派公卿のエースとして活躍するが、勝海舟、坂本龍馬と摂海沿岸の警備を視察して以降、攘夷の無謀さを知り、やがて周囲の過激尊攘派から開国派に傾いたとみられるようになる。文久3年(1863)5月、猿ヶ辻付近で刺客に襲われた。

 

 

三条実美

(1837〜1891)

長州藩と手を組み攘夷運動を展開。文久3年(1863)将軍の加茂神社への攘夷祈願や、攘夷決行期限日を得ることに成功。しかし8月18日の政変により官位剥奪され、ほか6人の尊攘派公卿とともに都落ちををした(七卿落ち)。慶応3年(1867)12月の王政復古後、上洛を許され、官位も復権し、新政府の副総裁となった。


梨木神社(三条実万、実美を祭る神社):京都御所東側寺町通り

●七卿落ち史跡 広島 鞆の浦御手洗

 

 

 

岩倉具視

(1825〜1883)

下級公家堀川にうまれた。のち岩倉の養子となる。関白鷹司政通に接近し、孝明天皇の近習となり、政治家として活動を始めた。安政5年(1858)日米修好通商条約の勅許を願い老中堀田正睦が上洛すると、反対派公家88人で勅許阻止のため列参。朝廷での地位を築いた。和宮降下の件では、朝廷の権力回復の為にと、幕府と通じ、孝明天皇を動かし、強引に実現させたが尊攘派を激怒させることとなり、辞官・剃髪のうえ、郊外の岩倉に蟄居となった。(文久2年〜慶応3年の約5年間続いた。)その間にも密かに政治活動を起こし、特に薩摩の急進派と接するようになり、三条実美とも提携し、倒幕思想を固めていった。孝明天皇が没し、明治天皇が即位すると復職。工作により「倒幕の密勅」が薩長に降りたが、徳川慶喜の大政奉還を朝廷が受理し、先を越される。しかし、岩倉主導で「王政復古の大号令」のを発し王政復古が実現した。続いての小御所会議では明治天皇の御前で慶喜の辞官と領地返上を主張、決定させた。これにより新政府から排除された慶喜は鳥羽・伏見の戦いを起こすが敗れ、朝敵となるに至ったのだった。


岩倉具視の謎

五百円札

 

 

京都御所・史跡

 

 

猿ヶ辻

文久3年(1863)5月深夜、国事係公卿の会議を退出した公知は太刀持ちと共に朔平門をすぎて「猿ヶ辻」にさしかかったその時、3人の刺客に襲われ重傷をおった。太刀持ちは逃げたが、公知は立ち向かい、刀を奪い取るなどしたが、帰邸後、出血多量で死亡した。(猿ヶ辻の変) 奪った刀は薩摩藩田中新兵衛のものと判明。新兵衛は捕らえられたが自刃して果てた。


猿ヶ辻 :邪気の侵入をふせぐために築地の角を内側に切り込み、御幣をかついだ木造の猿を浮き彫りにしていることによる名称。

 

学習院跡

平野国臣宮部鼎蔵桂小五郎久坂玄瑞ら「学習院出仕」となった志士たちも出入りしていた。

:猿ヶ辻に近いところにある。現在芝生になっており当時の痕跡は全くない。 

 

小御所

徳川慶喜が朝廷へ大政奉還をした後、薩摩の大久保と西郷は御所内を倒幕派に切りかえるクーデターに成功(王政復古の大号令)。慶喜から官位と領地をとりあげて追いつめ、武力蜂起させようと画策していた。

慶応3年(1867)12月、新しい役職(三職)による会議が天皇の御前で開かれた。慶喜の辞官納地の件が主な議題である。慶喜処分を要求する岩倉具視と、それに対し異議をとなえた山内容堂との意見が激しく対立し、会議は深夜に及んだ。会議は一旦休憩に入るが、休憩中に御所を警備していた薩摩の西郷隆盛の「短刀一本あれば片がつく。」との発言で岩倉は自ら覚悟をきめ、それがまた容堂に伝わったことにより、容堂は途端におとなしくなり会議は一気に決したという。

:京都御苑の御所内にあり、通常は見学できない。(御所一般公開が年に数回ある)

 

撮影次第載せます。

 

 

岩倉具視幽閉旧宅

:京都市バス 岩倉実相院下車

 

 

蛤御門、堺町御門、鷹司邸跡

 

 

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