幕末年表
|
1853 |
嘉永6年 |
|
老中阿部正弘はとりあえず国書を受け取り、ペリーを退却させる。そして対応策を諸大名、幕臣に求めた。また幕政改革として広く人材を登用した。 |
|
1854 |
安政元年 |
日米和親条約締結
| |
|
1855 |
安政2年 |
長崎海軍伝習所開設
|
勝海舟、榎本武揚、五代友厚らがオランダ人教官に海軍の基礎知識を学んだ。 |
|
1856 |
安政3年 |
蕃書調所できる 将軍継嗣問題 |
村田蔵六(長州・大村益次郎)、松木弘安(薩摩・寺島宗則)らを教授として採用。のちの東京大学に発展。 将軍家定は病弱だった為、この頃から将軍継嗣問題が起こった。一橋慶喜派(老中阿部正弘、薩摩藩主島津斉彬、福井藩主松平春嶽、幕臣川路聖謨ら)と南紀派(彦根藩主井伊直弼ら)とで争われた。 |
|
1857 |
安政4年 |
吉田松陰、松下村塾を開く
|
アメリカ初代総領事としてハリスが下田に入った。 松下村塾では時代を動かす数多くの人物を輩出した。高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一は松下村塾の四天王といわれた。なかでも高杉と久坂は村塾の双璧といわれる。ほかにも伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎らが松下村塾で学んだ。
|
|
1858 |
安政5年 |
安政の大獄始まる
|
公武合体の密勅が直接水戸藩に下り、幕府は、朝廷と水戸藩が組んで幕府に反逆を企んでいると解釈。この時から安政の大獄が始まった。 |
|
1859 |
安政6年 |
日米修好通商条約に調印 家茂、第14代将軍に 吉田松陰、橋本左内 死罪に
|
大老になった井伊直弼は無勅許で強引に日米修好通商条約を結ぶ。 家茂を将軍にすることにも成功。 一橋派の島津斉彬、松平春嶽、徳川斉昭らを処罰。また幕府への反対勢力を一掃しようと、吉田松陰、橋本左内らも処罰した。 |
|
1860 |
万延元年 |
桜田門外の変 和宮降下の勅許おりる
|
咸臨丸は日本人による初めての海外渡航に成功。勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らが乗船していた。また同時に出発したポーハタン号も無事渡米に成功。こちらには遣米使節団として小栗忠順らが乗っていた。 大老井伊直弼が水戸藩浪士らにより暗殺された。この事件により幕府は衰退していく。(桜田門外の変) |
|
1861 |
文久元年 |
土佐勤王党結成
|
文久2〜3年頃は武市半平太率いる土佐勤王党が、長州藩とともに、京の政界をリードしていった。 |
|
1862 |
文久2年 |
坂下門外の変 寺田屋事件
高杉晋作、英国公使館を焼き討ち
|
老中 安藤信正、水戸浪士に襲われ負傷。(坂下門外の変) 藩主の父、島津久光が千人の兵を率いての異例の上洛。これを真木和泉ら尊攘派志士たちは、倒幕の為と煽動。これに応えようと有馬新七らは寺田屋に集結するが、久光により弾圧された。(寺田屋事件) 京を後にした久光は江戸へ兵を率いて入り、幕府の人事介入をする。一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政治総裁職にすることに成功。目的を達成し京へ引き返す途中、生麦村でイギリス人を殺傷する事件を起こした。(生麦事件) |
|
1863 |
文久3年 |
新選組誕生 将軍家茂、上洛
長州藩、外国船を砲撃
高杉晋作、奇兵隊結成
天誅組の変
8月18日の政変
|
江戸で将軍上洛の際の警護役として200人余りの浪士が集められ上洛。そのうち京に残った13人が京都守護職支配下におかれ新選組となった。 将軍家茂は公武合体推進のため、3代将軍家光以来229年ぶりに上洛。孝明天皇の加茂神社への行幸に護衛役として.従うなどした。 幕府が指定した攘夷期限5月10日を受け、長州の久坂玄瑞らは馬関(下関)で外国船を無差別砲撃した。 しかし欧米艦隊により報復攻撃が始まる。壇ノ浦砲台、前田砲台は破壊された。 この敗報により毛利藩主は高杉晋作に善後策を命じ、憂国の志があればだれでも参加できる奇兵隊が結成された。後に、奇兵隊は維新回転の原動力となっていく。 生麦事件の報復として行なわれた薩英戦争。結局薩摩藩はイギリスに賠償金の支払いを約束。しかし列強の軍事力を体験した薩摩藩は、これまでの攘夷論から開国論へと路線を転換、急速にイギリスに接近していく。 孝明天皇自らが倒幕のため大和行幸するとの計画にあわせ、倒幕を目的とした天誅組が大和五条に挙兵。しかし8月18日の政変により大和行幸は延期、挙兵は失敗に終わった。 薩摩・会津・公武合体派公卿たちは8月18日、尊攘倒幕派の長州藩、長州派公卿を京から一掃した。(8月18日の政変) |
|
1864 |
元治元年 |
神戸海軍操練所設立 四国連合艦隊、下関を砲撃 第一次長州征伐 長州藩、幕府に謝罪
高杉晋作、功山寺で挙兵、馬関を占拠
|
勝海舟は、弟子の坂本龍馬を塾頭に神戸海軍操練所を開設。広く人材を募った。 京を追われた長州藩は巻き返しをはかり京への出兵を画策。三条小橋の旅館・池田屋で尊攘派の大物志士約30人が会合をしていた。そこに新選組が踏込み、約2時間の戦闘の末壊滅的な打撃を与えた。この事件で維新が3年遅れたといわれている。(池田屋事件) 池田屋事件をきっかけに長州藩はついに武力上洛を決定した。しかし、薩摩藩を中心とした連合軍に撃破され、朝敵の汚名を着る事となる。この事件で、久坂玄瑞が命をおとした。(蛤御門の変) 前年からの、下関海峡での外国船砲撃の報復として、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四ヶ国の連合艦隊は馬関を砲撃。長州は完敗した。これにより長州藩の攘夷方針は完全に挫折した。 幕府は勅命により、長州征伐を宣言。西郷隆盛の指揮する15万の兵士が長州国境に迫ったが、長州藩は毛利父子の謝罪、禁門の変の責任者を切腹、処刑するなどして降伏。戦わずして第一次長州征伐は終了した。長州藩内は急進派(正義派)から保守派(俗論党)に握られることになった。 謝罪恭順の弱腰長州藩上層部(俗論党)に業を煮やした晋作は12月、下関の功山寺で挙兵。馬関奉行所を占拠、続いて三田尻の海軍局を襲い3隻の藩船を奪った。 翌1月、絵堂・大田の戦闘で勝利し、俗論党を一掃、藩の実権を握った。
|
|
1865 |
慶応元年 |
|
坂本龍馬は神戸海軍操練所時代の仲間を核として、亀山社中を結成。我が国初のカンパニーが誕生した。平時は海運・貿易業、有事は海軍として活動するもの。薩摩、越前などが出資した。 |
|
1866 |
慶応2年 |
第二次長州征伐 将軍家茂死去 慶喜、第15代将軍に 孝明天皇崩御
|
坂本龍馬、中岡慎太郎の活躍により西郷、桂会談が実現。軍事同盟である薩長同盟が成立した。. 幕府は諸藩に第二次長州征伐を発令、10万余りの兵が長州の四つの国境に配置され攻撃した。しかし、長州軍は大村益次郎、高杉晋作の活躍により幕府軍に大勝した。 将軍家茂が大坂城で急死すると、あとを継げるものは、もう慶喜以外にはなかった。再三固辞した慶喜だが、ついに15代将軍に就任した。 |
|
1867 |
慶応3年 |
大政奉還 坂本龍馬・中岡慎太郎近江屋で暗殺される 王政復古の大号令 小御所会議 |
土佐藩の後藤象二郎は薩長に後れを取っていることに焦り、坂本龍馬に望みを託した。龍馬は私怨を捨てて後藤と手を組み、亀山社中は正式に土佐藩に属する組織「海援隊」となった。 坂本龍馬の船中八策を基本にした大政奉還案を土佐藩が採用。幕府に建白書を提出した。 一方、徳川家が力を温存したままの大政奉還に反対する武力倒幕派の薩摩藩の大久保らは、倒幕の密勅を得るよう画策。 結果、10/14、徳川慶喜は大政を奉還した。奇しくも同じ日、倒幕の密勅が出されていた。 11/15、京都の近江屋で龍馬と慎太郎は暗殺された。 西郷、大久保に後藤象二郎、岩倉具視ら倒幕勢は御所を兵で固め、クーデターを決行。王政復古の大号令が発せられた。ここに徳川慶喜を政治からはずした、新しい政権が誕生した。 小御所の会議で西郷と大久保は、慶喜から官位と領地を取り上げ、徳川家を追いつめて武力蜂起させようと計画した。
|
|
1868 |
慶応4年 明治元年 |
鳥羽伏見の戦い (戊辰戦争始まる) 五箇条の御誓文 江戸無血開城 江戸を東京と改称 明治と改元 榎本武揚、函館五稜郭を占拠
|
あくまでも倒幕を目指す薩摩藩の西郷隆盛の挑発に乗るような形で、幕府軍はついに大坂城を出て鳥羽・伏見に布陣。戦闘が始まった。この時、大久保、岩倉らが用意させた「錦旗」の登場で、幕府軍は朝敵となった。 朝敵となった幕府軍の士気は衰え総崩れとなり大坂城へ敗走。慶喜は兵を残したまま側近と江戸に帰ってしまった。 明治天皇が京都御所で維新政権の基本方針「五箇条の御誓文」を発表した。 江戸に帰った慶喜は、徳川家存続を第一に考え、恭順の姿勢を示した。それでも西郷は武力倒幕の為、江戸城総攻撃を決意していた。しかし、幕臣山岡鉄舟の尽力で、勝海舟と西郷隆盛の会談が実現。西郷は江戸城の無条件開城などの条件で総攻撃を中止した。(江戸無血開城) 上野寛永寺にこもった1500人余りの彰義隊に、兵力不足の為、新政府軍(官軍)、西郷は手を出せなかった。代って大村益次郎が指揮をとり上野の山を囲み総攻撃、1日で彰義隊を壊滅させた。(上野戦争) 戦闘の舞台は東北へと移っていった。会津戦争では白虎隊の悲劇を生み、会津藩は降伏。 榎本武揚は旧幕府艦隊を率いて蝦夷を目指した。新政府とは別の新しい共和国を建設するのが目的だった。箱館に上陸し五稜郭を占拠、松前城をおとし北海道を掌握し共和国建設に着手した。 |
|
1869 |
明治2年 |
東京遷都 五稜郭の戦い終結 (戊辰戦争終結)
|
4月、官軍が上陸、戦闘を開始した。榎本海軍は制圧され五稜郭に篭城、抗戦を続けた。このとき土方歳三らは、敵陣に斬り込んで壮絶な最後をとげる。 弁天崎砲台が陥落すると徹底抗戦は不可能になった。5/18、榎本武揚は降伏勧告に応じ、ここに戊辰戦争が終結した。
|