薩 摩

薩摩藩は、藩主島津斉彬の指導のもと、他の藩に先駆けて外国の進んだ技術を導入し、軍備の近代化に取り組んでいた。軍需工場では毎日1200人もの人々が働き、銃や大砲の大量生産がすすめられていた。その経済的背景には琉球王国との貿易があり、またそれを利用して偽金作りもしていた。幕府には貿易の都合上、琉球通宝を造るといいながら、実は天保通宝を造っていたのだった。その額年間100万両にも達したという。

ペリー来航1年前に、その島津斉彬は亡くなり、代わって弟の島津久光(藩主の父)が実権をにぎった。軍事力と経済力を背景に、久光は「公武合体」の立場に立ち、幕政改革を図った。

島津久光 

しかし、1863年イギリス艦隊との間で行われた薩英戦争で外国の力を目当たりにし、以後開明策をとり、西郷隆盛、大久保一蔵らの改革派が活躍。1866年、薩長同盟を結び倒幕へとむかった。


薩摩藩、壮大な物語

 

 

 

西郷吉之助(隆盛)

(1827〜1877)

薩摩の下級藩士であったが藩主島津斉彬に見出され重用された。将軍継嗣問題では一橋慶喜を推すが井伊大老の登場と斉彬の死で挫折。自殺未遂後、奄美大島に隠棲。斉彬の弟久光により召還されたがやがて対立。徳之島、沖永良部島に流された。2年後に許されて上洛し、やがて桂小五郎薩長同盟を結び、以後統幕派として活躍。王政復古、戊辰戦争、廃藩置県などを指導したが、征韓論をめぐり岩倉具視らと対立。参議を辞して帰郷した。1877年、不平士族らに擁されて武装奮起したが(西南戦争)、鹿児島城山で戦死した。


西南戦争120年黎明館 西郷資料

フミのつれづれと西南戦争植村的世界(西南戦争史跡訪問は写真満載)

 

 

大久保一蔵(利通)

 (1830〜1878)

薩摩藩下級藩士の家に生まれた。藩主斉彬が死に、久光が藩政を掌握するや、直ちに接近、尊攘派下級武士の組織「精忠組」の指導者となる。その後は怜悧、冷静、果敢な政治力を駆使し寺田屋事件、薩英戦争の危機を乗り越え、蛤御門の変、第一次長州征伐へと政局が激動するなか藩論を公武合体から倒幕へと転換させた。さらに薩長連合を結び、維新の指導的役割をはたした。


大久保利通像大久保利通

黎明館 大久保資料

鹿児島大久保利通展

 

 

有馬新七

(1825〜1862)

薩摩藩に郷士の子として生まれる。19歳で江戸に出、学識を深め、安政4年(1857)薩摩藩邸学問所教授となり、天下の志士と広く交わる。島津久光が公武合体の兵を率い上洛した折に、急進派の真木和泉らと討幕の挙に出ようと、伏見の寺田屋に会した所を、久光が派遣した鎮撫使によって殺された(寺田屋事件)。

 

 

田中新兵衛

(1832〜1863)

薬種商の子、又は船頭の子として生まれる。士分に取りたてられたのち、文久2年(1862)上洛。「人斬り新兵衛」の名で京洛を震撼させた。下は記録に残された暗殺録。

文久2年7月20日、木屋町二条で島田左近(九条家家臣)を斬殺。

8月20日、木屋町通りで本間精一郎(越後浪人)を岡田以蔵と協力して斬殺。

8月22日、宇郷玄藩重国(和宮降下に奔走した九条家諸大夫)を九条家下屋敷で斬殺。

9月23日、渡辺金三郎、森孫六、大河原重蔵、上田助之丞(東・西町奉行与力)を江州石部宿で斬殺、粟田口にさらした。新兵衛のほか土佐岡田以蔵、長州久坂玄瑞、寺島忠三郎、土佐広瀬健太らも荷担していた。

文久3年5月20日、姉小路公知(国事参政の公卿)を猿ヶ辻で殺害。容疑者として取調べ中、刀の確認をする際、 腹を刺し喉を突いて自害した。これにより薩摩藩は御所九門の警備を解かれた。


墓所:東山区東福寺。墓には、田中雄平墓、薩州 行年三十二歳 と刻まれている。

 

 

中村半次郎(桐野利秋)

(1838〜1877)

薩摩藩郷士の家に生まれる。剣の技を鍛え、示現流の名手となる。文久2年(1862)上洛。西郷吉之助に見出され、国事に奔走、他藩の志士たちと交わった。また「人斬り半次郎」の異名をもつ。戊辰戦争の会津若松城攻めでは軍監として名将ぶりを発揮。維新後は陸軍少将、陸軍裁判所長などを歴任。しかし征韓論に敗れて下野する西郷と鹿児島に帰り、私学校を創設。西南戦争で西郷軍指揮官として戦い、城山で戦死した。

 

 

史 跡

 

 

西郷・月照王政復古謀議の跡碑

(清閑寺)

 

 

島津斉彬の命により西郷は一橋慶喜将軍擁立運動のため朝廷工作に携わった。薩摩と親戚関係の近衛家への橋渡しをしたのが、清水寺・成就院の住職、月照だった。しかし、大老井伊直弼による安政の大獄がおこると、月照、西郷にも捕縛の手がまわってきて都落ちをすることになる。その際の相談を成就院に隣接する清閑寺でおこなった。

月照は平野国臣に付き添われ鹿児島入りを果したが、結局、西郷と共に錦江湾に入水。月照は命を落とした。西郷は救出され生き残った。


月照

 

 

寺田屋

  

寺田屋事件

薩摩藩尊攘過激派の有馬新七らは、藩主の父島津久光の上洛を機に、京都所司代などを襲撃して幕政改革のクーデターを策していた。(久光が1千の兵を率いて上洛するのは倒幕行動と勘違いしたからだった。)ところがこれを嫌った久光は、1862年4月23日、寺田屋に薩摩藩士を差し向け説得しようとするが、聞こうとしないためやむを得ず乱闘となり、有馬新七ら6名を斬殺、2名が重傷の後、自害した。


寺田屋事件の刀(黎明館)

 

薩摩藩邸の門

(御所の北、同志社大学の敷地内)

 

薩長同盟

薩長連合ともいう。1866年1月、薩摩藩と長州藩の間で結ばれた軍事同盟の密約。薩摩藩は、第一次長州征伐では幕府側だったが、この同盟により第二次長州征伐より長州を支援し、その後の倒幕へと結びついていった。

坂本龍馬の斡旋によって、桂小五郎と西郷隆盛はこの場所で薩長同盟を結んだ。

 

 

 

大久保利通(一蔵)邸跡

慶応年間、御所の北東、石薬師御門付近町家の茶室を借り策源所にしていた。岩倉具視はここを訪ねる時には武士の装束をし、山岡頭巾をかぶり、公卿であることをさとられぬ様にしていた。彼らはここで倒幕の密議をおこなっていた。

:石薬師通り寺町東入ル(小学校正門前の道、東へ)

 

 

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