新選組

史跡新選組年表目次

新選組隊士紹介

 

 

近藤勇(局長)

武州上石原村の農家に生まれる。天然理心流近藤周助の養子となり、試衛館道場の主となった。文久3年(1863)3月に門弟らとともに上洛して新選組を結成。局長として隊を指揮するが、明治元年(1868)4月に新政府軍に投降し斬首された。35歳。


※近藤勇胸像,、遺髪塔が壬生寺にある。鎖帷子、天然理心流の木刀、三条河原晒し首図、などは霊山歴史資料館に展示されている。

近藤勇の謎

 

 

土方歳三(副長)

武州石田村の農家に生まれる。天然理心流剣術を学び、近藤勇と親交を深めた。ともに上洛して新選組を結成すると、副長をつとめて隊の強化に尽くした。近藤の死後も新政府軍に抗戦を続けたが、明治2年(1869)5月に函館で戦死した。


八木邸

 

山南敬介(総長)

陸奥仙台に生まれる。江戸に出て北辰一刀流を極め、のち天然理心流に転じて近藤勇に師事した。上洛後は新選組の総長をつとめたが、慶応元年(1865)2月、意見の違いから隊を脱走し、隊規違反の罪で切腹させられた。30歳。


※切腹の場所は前川邸。墓は光縁寺にある。

 

 

 

 

沖田総司(一番隊長)

白川藩士の子として江戸に生まれる。少年の頃から試衛館に預けられ、10代で天然理心流を極めた。上洛後は新選組随一の剣客として、一番隊長をつとめたが、肺結核を病み、明治元年5月に江戸千駄ヶ谷で病死した。27歳。


武州で天然理心流を近藤や土方らと教えていたころ、教え方がもっとも乱暴だったのが沖田総司だったそうだ。しかし、不思議に愛きょうがあり、村の娘たちに人気があった。京都でも同じことで、壬生寺で子守りをしている近所の娘や、お手伝いさんたちは、沖田が来たらみんな、「沖田はん、沖田はん」とすがりついていったそうだ。

京都で壬生の狼と恐れられていた人斬り集団 新選組のイメージアップや地域との関係に、沖田総司はかなりの役割を果していたのだった。


おきたふぁんくらぶ

 

 

永倉新八(二番隊長)

松前藩士の子として江戸で生まれる。神道無念流を極めたのち、近藤勇と出会い試衛館の食客となった。上洛後は新選組の2番隊長を務め、隊の中心戦力として活躍。明治元年3月に脱退し、大正4年(1915)77歳まで生きた。 


小説 「幕末新選組」池波正太郎著の主人公

 

 

斎藤一(三番隊長)

幕臣の子として生まれる。文久3年、近藤勇らと共に新選組を結成。三番隊長などをつとめた。会津戦争では隊長となるが、単身会津に残り、維新後は新政府の警視庁に出仕した。大正4年、72歳で没。


斎藤一HP 

 

松原忠司(四番隊長)

播磨に生まれる。文久3年入隊。四番組長、柔術師範などをつとめたが、慶応元年に犯した失策を恥じて切腹未遂事件を起こした。その後、傷が悪化し9月に死亡した。


墓は光縁寺にある。

幕末ヒーロー(幕末維新新選組副長助勤四番隊松原忠司さんのHP)

 

武田観柳斎(五番隊長)

出雲の医者だったが、文久3年に入隊し五番隊長などをつとめ、明保野邸に踏込むなどした。また長沼流兵法を隊士たちに指導していた。しかし、慶応3年に脱走し、倒幕派に寝返った為、鴨川の銭取橋で新選組により斬殺された。

 

 

井上源三郎(六番隊長)

 八王子千人同心の子として武州日野に生まれる。近藤周助に天然理心流を学び、近藤勇みらとともに上洛し、六番隊長などをつとめた。明治元年、鳥羽・伏見の戦で戦死。40歳。

 

 

谷三十朗(七番隊長)

備中松山藩士の子として生まれる。宝蔵院流の槍の達人で文久3年(1863)ごろに、弟、次弟とともに入隊。七番隊長、槍術師範などをつとめたが、慶応2年(1866)急死した。

 

 

 

 

藤堂平助(八番隊長)

津藩主藤堂和泉守の落胤と自称した。北辰一刀流の使い手で近藤勇とともに上洛し新選組の八番隊長などを務めた。しかし、慶応3年(1867)3月に御陵衛士として分離すると、同年11月の油小路事件で新選組に斬殺された。享年24歳。

 

 

鈴木三樹三郎(九番隊長)

常陸志筑に生まれる。伊東甲子太郎の実弟。神道無念流を学び、元治元年、兄とともに新選組に入隊。九番隊長、監察をつとめた。慶応3年の油小路事件では脱出に成功し、大正8年、83歳まで生きた。 

 

 

 

 

 

原田左之助(十番隊長)

伊予松山藩の中間の子として生まれる。宝蔵院流の槍の達人で近藤勇らと共に上洛して新選組を結成。十番隊長などをつとめた。明治元年脱退して靖共隊を組織するが、彰義隊に転じ、上野戦争で戦死した。29歳。

 

 

島田魁(伍長)

美濃大垣藩士として生まれる。脱藩し上洛ののち、文久3年、新選組隊士募集に応じて入隊。諸士調役兼観察、伍長を歴任。会津では軍目、函館では頭取をつとめた。明治33年、77歳で没した。


霊山歴史資料館には島田魁の遺留品などが多く残されている。

 

 

山崎烝(諸士調役兼監察)

摂津の医者の子に生まれる。文久3年、新選組結成されると募集に応じて入隊。諸士調役兼監察をつとめ、古高俊太郎宅を突き止めるなど活躍した。明治元年、鳥羽・伏見の戦いで重傷を負い、江戸に退却する船の中で没した。

 

 

芹沢鴨

水戸藩に生まれる。天狗党の出身で、文久3年に幕府浪士組に加わり上洛。新選組を結成し、近藤勇とともに局長を務めた。しかし、隊名を汚す粗暴な行為が目立った為、土方歳三らの手で暗殺された。享年34歳。


八木邸

 

 

 

 

伊東甲子太郎

常陸志筑に生まれる。江戸深川で北辰一刀流の道場を構えていたが、元治元年(1864)新選組に入隊し、参謀となる。慶応3年(1867)御陵衛士として脱退したが油小路事件で新選組に謀殺された。享年33歳。

 

 

河合耆三郎

播磨の米問屋に生まれる。文久3年入隊し、勘定方をつとめた。しかし、慶応2年、帳簿の不始末が原因で切腹させられた。29歳だった。

墓は壬生寺にある。

 

参考:完全制覇新選組(立風書房)

 

目次へ 

 

京都見廻組

 

 

佐々木只三郎 (与頭)

会津藩士の家に生まれ旗本の養子となる。文久2年(1862)幕府は浪士隊を募集、翌年3月上京することになっていた。その応募した浪士234人を監督する取締並出役のひとりに佐々木は選ばれた。京都で清河八朗が幕府を裏切る演説をしたが、文久3年4月その清川八郎を只三郎は江戸麻生で斬殺した。

元治元年、京都見廻組与頭に昇進。慶応3年(1867)11月15日夜、6人の部下を指揮して近江屋で坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺した。(通説)


松林寺 (上京区) が只三郎の宿舎となっていた。

二条城の北。新出水通知恵光院西入ル

 

 

今井信朗 (肝煎)

江戸湯島の幕臣の家に生まれる。慶応3年(1867)5月見廻組を命じられ10月上京、肝煎に昇進し龍馬暗殺に加わった。裁判では、見張役を受け持ち直接手を下してないと主張していたが、後年、暗殺を認めた。

 

 

桂早之助 (肝煎) 

天保11年(1840)京都生まれ。剣術は西岡是心流で特に小太刀の名人であった。嘉永4年(1851)京都所司代同心並となったのち、8・18の政変の警備、池田屋事件で多数の浪士を捕縛、禁門の変で禁裏御所に出動するなどの活躍をした。文久3年、将軍家茂上洛の際の天覧剣術大会では江戸講武所の剣客をことごとく破り、剣術優秀につき将軍より白銀5枚を賜ったほどの腕前をもつ。慶応3年(1867)、見廻組並、のち肝煎に昇格。龍馬暗殺の刺客に加わった。鳥羽伏見の戦で戦死。行年28歳であった。


霊山歴史館には桂早之助が龍馬を斬ったとされる刀が寄贈されている。

 

 

渡辺篤

晩年になって手記を残し、龍馬暗殺を告白した。

 
 

目次へ] [龍馬暗殺へ]