安政の大獄

1858年(安政5)、井伊直弼が尊攘派に対しておこなった弾圧事件。

京都では大勢の逮捕者が出た。

大老 井伊直弼

滋賀県彦根城桜田門外の変

橋本左内寓居跡(福井藩邸跡)

 

 

橋本左内

(1834〜1859)

越前福井城下に藩医の子として生まれる。16歳で大阪の適塾に入門。蘭学と蘭方医学を修めた。ついで江戸へ出て蘭学に磨きをかけ西洋学を学んだ。その一方で、藤田東湖、西郷隆盛ら諸藩の志士と交流し、時局に目覚める。帰藩し、藩主松平慶永に重用された。将軍継嗣問題では一橋派の中心として朝廷の説得に奔走した。しかし安政6年(1858)安政の大獄がはじまり翌年、死罪となった。享年26歳。

二条城正面にある京都国際ホテル玄関口に福井藩邸跡と橋本左内寓居跡の石碑が建つ。


橋本左内

緒方洪庵と適塾

 

 

梅田雲浜

(1815〜1859)

若狭小浜藩に生まれる。京へ上り近江に塾を開いた。嘉永3年(1850)には海防策の意見書を藩に提出するが幕府批判ととられ藩士身分剥奪された。ペリー来航の際は尊王攘夷のために奔走、将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立派として行動。また公家達を説いてまわり、水戸藩の密勅降下にも関わった。京都では梁川星厳につぐ志士の指導者となった。しかし、安政の大獄の最初の逮捕者となり、取調中に江戸で病死した。


「梅田雲浜寓居」の石碑は:烏丸通り御池上ル東側にあります。

 

梁川星厳邸跡(鴨沂小隠)

 

 

梁川星厳

(1789〜1858)

美濃の郷士に生まれる。19歳で江戸へ出て山本北山の門に学ぶ。文政5年(1822)妻の紅蘭と天下を遊歴。江戸に戻り、神田お玉ヶに「玉池吟社」を開き、星厳の詩名は大いにあがった。弘化3年(1846)京都に移り住み、その居「鴨沂小隠」には梅田雲浜横井小楠吉田松陰などが出入りし時局を論じた。幕府を激しく批判し、安政の大獄に捕らわれようとしたが、その直前、コレラで急死した。このため妻の紅蘭が捕らわれたが、翌年釈放された。


梁川星厳邸跡(鴨沂小隠):川端通り丸太町上ル、京阪電鉄丸太町駅下車すぐ

梁川星厳・紅蘭

墓所:南禅寺 天授庵 

頼山陽宅(山紫水明処)

東三本木通り丸太町上ル

梁川星厳邸跡から川向かいに見える。

 

頼三樹三郎

(1825〜1859)

京都の三本木に生まれる。父親は「日本外史」で勤王論を論じた頼山陽。大坂、江戸へ遊学後、東北と蝦夷地を旅行。帰京後、梅田雲浜や梁川星厳らと交流。反幕府、朝廷復権の思想を論じ合った。将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持。安政5年(1858)4月、梁川星厳と密議をし、水戸藩に倒幕の密勅が降りるように画策。また西郷吉之助(隆盛)とも時局を論じ合った。8月、密勅が水戸に降りたが、これに対し、大老井伊直弼はのちの「安政の大獄」で対抗、弾圧をした。11月、捕縛された。一時、六角獄に入れられたが、翌年江戸へ送られた。取り調べでも幕政批判、勤王攘夷を一貫して主張。10月、刑死。


●父 頼山陽生誕地

 

 幕府側 

 

間部詮勝寓居跡

:寺町通り御池上ル東側

 

 

間部詮勝

(1804〜1884)

幕府の老中。越前鯖江藩主。井伊大老の命を受けて上洛。安政5年9月〜翌年3月まで滞在する。朝廷、公家と交渉する一方、反幕府批判勢力の弾圧にのりだした。町奉行所を指揮して梅田雲浜ら志士を続々と逮捕した(安政の大獄)。しかし、のち井伊大老と意見があわず、老中を罷免された上、処罰をうけた。


当時、詮勝が滞在した妙満寺は現在岩倉に移転しており、現在は左の石碑のみ建つ

●鯖江 万慶寺(間部詮勝菩提寺)

 

 

長野主膳

(1815〜1862)

彦根藩士で国学者。井伊直弼が大老になると、間部詮勝を補佐。京都で朝廷工作を担当し安政の大獄を指揮した。今も残る 老舗旅館 「俵屋」を拠点とし 尊王攘夷派志士の弾圧を開始した。しかし直弼の死後、彦根藩内の反対勢力に捕らえられ斬首された。

 

善導寺

:木屋町二条 

  

島田左近

(?〜1862)

九条家仕えの侍。長野主膳とともに尊攘派弾圧、浪士狩りに加わった。しかし直弼の死後、文久2年、薩摩藩 田中新兵衛らによって天誅の最初の犠牲者となった。木屋町二条の妾宅(善導寺の付近)で襲撃され、首級は鴨川筋四条の北の先斗町川ぎわに晒された。

 左近天誅の図 → 霊山歴史資料館

 

 

村山たか女

(1809〜1876)

埋木舎時代の直弼の恋相手。のち長野主膳の妾となり、また手先となって安政の大獄の情報提供など行った。直弼の死後、文久2年、息子の帯刀と隠れ家にいたところを尊攘派に捕らえられ、帯刀は目の前で斬られ、たかは三条大橋に尼姿で「生き晒し」にされた。

生き晒しの図 → 霊山歴史資料館

 

 

文吉

目明し。山城国の貧農に生まれ、浮浪の徒になったが、小才をかわれて目明かしとなる島田左近の忠実なる手足として安政の大獄などで暗躍し猿≠フ異名をもつ。文久2年(1862)、岡田以蔵らに高倉押小路の居宅を襲われ、斬首は刀の穢れと荒縄で絞首のうえ三条河原に晒された。また文吉の養女は島田左近の妾になっていた。

目明し文吉天誅の図→霊山歴史資料館

 

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