奈良 五條代官所襲撃 

|五條の三傑|


時刻:文久三年八月十七日申刻頃
(西暦1863年9月29日)午後4時ごろ)

率いる軍勢150−160人。菊の御紋の旗印で大和五條入りした天誅組は、代官の鈴木源内と面談をした。

「将軍家(徳川家)がいよいよ朝敵となった。関東征伐のため、京都からも間もなく軍勢が差し向けられるが、我々は中山大納言次男侍従(忠光)を大将とし、先に取締りの命を受けてこの地に来た。速やかに陣屋とこの町を明渡してほしい」

しかしながら鈴木源内はこれを断った。





岡八幡

千早峠を越えてきた一行と、先発で出発していた那須信吾や地元五條の乾十郎らは岡八幡社で集合した

(場所:五條博物館へ行く途中、山手側)
この道をまっすぐ下り五條代官所を襲撃した。
車でも天誅組が行軍した道をたどり五條市役所(代官所跡)近くまで行ける。




当時はあったと思われる木の切り株。

(岡八幡内)



五條代官所門

天誅組襲撃の時に焼かれた代官所は、のちの元治元年10月にこの地に場所を変えて建築された。

ちなみに当時の代官所の勤務時間は
午前9時〜午後3時であった。

(場所:国道24号線、柿の葉寿司たなかの向かい側
の五條史跡公園)




五條代官所跡

交渉決裂により鈴木源内は即座に殺害され代官所はたちまち乱闘となった・・・。

「ゲーベル隊長池内蔵太ハ、其ノ組引連レ表門ヨリ右ニ廻リテ砲発ス」  (大和日記)


(場所:五條市役所前)




桜井寺(天誅組本陣跡)





天誅組は桜井寺を本陣とし、
翌八月十八日には、徳川幕府にかわる新しい政府を発足させるべく「御紋政府」と書かれた看板を掲げ、五條代官所に変わりこの地を治めることを宣言した。

町に建てられた高札には大和五條の幕府領を押収し、天朝(皇室)直轄にする。年貢を半減する。また、天誅組に加わりたい者には苗字帯刀を許す。などのことが書かれた。

高取藩など近隣諸国にも朝廷の命である、と協力を要請。孝明天皇の大和行幸を迎える準備を着々と進めていった。



幕府の土地を奪い、天朝に戻して統一国家を運営しようという方法は、以前より真木和泉ら尊攘討幕派の唱えるところであったが、それをこのように実行したのは天誅組が一番最初であった。影には長州藩討幕派が見え隠れしている。この天誅組の挙兵が幕府に真っ向から歯むかった最初の挙兵であり、まさにここから時代は激しい展開をしていくことになる。






桜井寺にある手水鉢

討ち取った5人の首をこの手水鉢で洗ったあと、3日間晒した




桜井寺天誅組の碑





鈴木源内の墓(極楽寺)

代官所襲撃の際に殺害された鈴木源内らの墓。良い治世をしていたといわれていた鈴木源内だったが、不幸にも時代の犠牲になった



参考文献:天誅組紀行、維新の小道、いはゆる天誅組の大和義挙の研究、実記天誅組始末