紀州龍神 天誅倉 


天誅組の河内勢17名は十津川において中山忠光ら本隊を脱退し、紀州方面へ逃れていった。しかし行く先には紀州藩兵が待ち構えいる。
河内勢の中には重傷を負ったものがおり、迷惑をかけるからと自刃を申し出るが、生死共にすると約束した水郡善之祐はそれをきかず、紀州藩に自首することを決断した。




天誅組河内勢8名が幽閉された倉
(文久三年(1863)9月22日〜24日の2日間)

戦って無駄死にするよりも、自首して天誅組挙兵の精神を明らかにする。たとえ処刑されたとしても、後世の人は我らのことを分かってくれるだろう。
こう考えた河内勢は自首をし、紀州龍神温泉小又川の農家の米倉に幽閉された。





水郡善之祐は倉の柱に血で辞世を書いた。
(複製)

皇国のためにぞつくすまごころは
知るひとぞ知る神や知るらん



のち一行は、善之祐の息子英太郎(当時13歳)を除いた7名が京都に送られ処刑された。



天誅倉内部の様子

紀州藩小又川警備隊長の吉本は自首してきた天誅組河内勢の志に感銘し、倉に酒を運ばせ、傷を負った兵士の手当をし、天誅組河内勢を手厚く扱った。








現在の天誅倉では、天誅組について
ビデオや写真などで紹介している。

参考文献:天誅組河内勢の研究、天誅倉のパンフ