京洛での天誅・暗殺一覧


被害者

年月日

 

場所

 

暗殺者

事件の内容

島田左近

文久2年7月21日

京都木屋町二条

薩摩の田中新兵衛、志々目献吉、鵜木孫兵衛

安政の大獄で活躍した前関白九条尚忠家臣。首は四条河原に晒された。

井上佐一朗

文久2年8月2日

大坂道頓堀

土佐の岡田以蔵、ら4名

土佐勤王党弾圧に奔走した土佐藩下横目。死体は橋の上から川に投げ込まれた。

本間精一郎

文久2年8月20日

京都三条木屋町

(石碑あり)

薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵ら数名

攘夷督促勅使を江戸に派遣する問題で、本間の推す青蓮院宮と土佐の山内容堂が争っていた。薩長に一歩先んじたい土佐藩の悲願達成のため、土佐勤王党は本間を暗殺した。首は三条河原に晒し、胴体は高瀬川に蹴り込んだ。

宇郷玄蕃頭

文久2年8月20日

京都河原町通丸太町

土佐の岡田以蔵、肥後の堤松左衛門ら4名

安政の大獄で活躍した前関白九条尚忠の諸大夫。首は加茂川松原河原に晒した。

猿の文吉

文久2年8月30日

京都三条河原

土佐の岡田以蔵、清岡治之助、阿部多司馬

安政の大獄で活躍した島田左近の手先。斬れば刀のけがれになると絞め殺した。死体は真っ裸にして三条河原の柱に縛りつけた。

渡辺金三郎、大河原重三、森孫六、上田助之丞

文久2年9月23日

江州石部宿

田中新兵衛、岡田以蔵、久坂玄瑞、寺島忠三郎、山本喜三之進ら薩・長・土・久留米四藩の志士30余名。

京都町奉行4人は、安政の大獄で長野主膳、島田左近の浪士弾圧にくみしたため殺害された。首は粟田口に晒された(下図)。天誅を逃れるため京から江戸へ下向途中の出来事だった。

多田帯刀

文久2年11月15日

京都蹴上げの刑場

長州の楢崎八十槌、土佐の小畑孫三郎ら浪士20余名

安政の大獄で活躍、協力した長野主膳の妾村山可寿江の息子(金閣寺の寺侍)。可寿江は三条河原で生き晒しにされ、多田帯刀は蹴上で首をはねられ、粟田口に晒された。

池内大学

文久3年1月22日

大坂難波橋 付近

土佐の岡田以蔵ら数名

尊攘派の町人儒者。梁川星厳、梅田雲浜、頼三樹三郎とともに安政の大獄で捕らえられたが、軽い処分で済んだ。それは賄賂で変貌したため、という疑惑による暗殺。首は難波橋に晒された。

賀川肇

文久3年1月29日

京都下立売千本東

薩摩の田中新兵衛ら

千種家家臣。島田左近らとともに尊攘派を弾圧したため。首は一橋慶喜の宿舎(東本願寺)に送り付け、腕は岩倉具視邸に投げ込まれた。

家里新太郎

文久3年5月18日

京都二条城付近

尊攘派浪人

京都に住む町人儒者。幕府と内通し、門弟たちを洛中に張りめぐらして尊攘派の行動を報告していた。首は三条河原町に晒された。

姉小路公知

文久3年5月20日

京都御所猿ヶ辻

(立て札あり)

薩摩の田中新兵衛?

御所での会議を終え帰宅途中、朔平門外猿ヶ辻にさしかかったところを、3人の刺客に襲われた。太刀持ちの下僕は逃げた為、公知は応戦。刺客は逃げていったが頭を斬られていた。屋敷へたどりつくも重傷のため絶命。現場に捨てられてた太刀が田中新兵衛のものと判明し逮捕するが、取調中、弁解もせぬまま新兵衛は切腹してはてた。これにより薩摩藩は乾御門警備を解かれた。以後しばらくの間、京都の政界は長州藩が独占する事になった。

八幡屋卯兵衛

文久3年7月23日

京都仏光寺高倉

尊攘派浪人

貿易商人。国内物産を買い集め長崎・横浜に出荷し巨利を得た。このために関西の物価は上がっていき恨みをかい尊攘派に狙われた。首は三条河原に晒され、罪状書には「この男から借用の金子はいっさい返却におよばず。」と書かれていた。

芹沢鴨

文久3年9月18日

京都壬生八木邸

新選組近藤勇、土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田佐之助

新選組、近藤・土方一派と芹沢派との争いによる暗殺。島原の角屋で宴会のあと泥酔して帰宅、妾と共に寝込んだところを襲った。初太刀は沖田であった。素っ裸だったが脇差しで応戦、しかし土方の二の太刀を防げず殺された。この事件後、新選組の近藤体制が確立されていった。

平岡円四郎

元治元年6月16日

京都町奉行組与力長屋近く

水戸藩本光国寺党

一橋家家老。その地位を利用し、将軍後見職の一橋慶喜や朝廷に働きかける平岡の左幕的行動に、慶喜の警護役の勤王派水戸藩士が不満をもち斬殺した。

佐久間象山

元治元年7月11日

京都三条木屋町

(石碑あり)

肥後の河上彦斉、因州藩士前田伊右衛門

昼間、西洋の馬具を置いた白馬にまたがった象山は木屋町通りを三条にさしかかった、その時、蔭から刺客が2人斬り付けてきた。刺客は馬から落ちた象山の頭をさらに斬りつけて逃げていった。罪状書には「西洋学を唱え、開港を主張し、彦根遷幸を計画を謀ることによる」という内容が書かれていた。

武田観柳斉

慶応2年9月28日

京都竹田街道銭取橋

新選組斎藤一、篠原泰之進

教養があり兵学をする武田は局長の近藤をうまくおべっかで取り込みんでいた。新選組の兵学師範として指導にあたっていたが、幕府はフランス式調練をとりいれると武田の指導は中止された。地位を危ぶみ、参謀の伊東甲子太郎の接近し、さらには薩摩藩屋敷に出入りするようになった。これはすぐ近藤、土方の知るところとなる。屯所を出た武田は、竹田街道の銭取橋付近で付け人の斎藤一に斬られた。即死であった。

孝明天皇

慶応2年12月25日

京都御所

岩倉具視ら倒幕派公卿?

公式には疱瘡による病死と発表されている。しかし、年齢も36歳と若く、健康な体質であったため、岩倉具視による「筆毒塗り暗殺説」・「厠刺殺説」や、「湯殿変死説」も噂された。

原市之進

慶応3年8月14日

京都千本通り二条城西の原邸

幕府歩兵組水戸藩藩士

原は最後の将軍慶喜の側近として政治的手腕を発揮、幕政改革を行なった。慶喜は日頃から「徳川家を滅ぼすのは旗本である」といっており、それだけに幕府の旗本などに敵も多かった。それは原が煽動したものである、と決め付けられ、原邸にて斬殺された。

赤松小三郎

慶応3年9月3日

京都東洞院通四条

薩摩の中村半次郎、田代五郎左衛門

信州上田藩の洋学者。佐久間象山、イギリス人、勝海舟などに学んだ後、京都で塾を開き名声が高かった。薩摩藩はこれに目をつけ兵学の教官として呼んだ。しかし、スパイ行為を感じたため中村は彼の暗殺に及んだ。

坂本龍馬・

中岡慎太郎

慶応3年11月15日

京都河原町三条

「近江屋」2階

(石碑あり)

見廻組佐々木只三郎ら?

下手人は不明。当時は新選組によるものと騒がれたが、明治35年になって元見廻組今井信郎が雑誌に自分が2人を斬ったと発表。斬ったとされる刀も現存する。現在の最有力説とされているが証拠は確定されていない。

伊東甲子太郎

慶応3年11月18日

京都堀川七条付近

(石碑あり)

新選組隊士・大石鍬次郎ら 5、6名

「伊東らが近藤勇の暗殺を計画中」との情報により、近藤勇は伊東を七条醒ヶ井の妾宅におびき寄せ泥酔させた。帰り道、大石らが襲撃、斬殺した。これは御陵衛士と新選組の決闘である油小路事件に発展した。

横井小楠

明治2年1月5日

京都寺町丸太町下ル

(石碑あり)

攘夷派

維新政府に参与として出仕した。しかしヤソ教徒、共和主義者との理由で太政官を退出したところを暗殺された。新政府要人が暗殺された最初の事件となった。

大村益次郎

明治2年9月4日

京都三条木屋町

(石碑あり)

長州藩藩士、土佐、信州浪人、ほか

京阪地方の軍事施設視察のため上洛。旅館二階で夕食中に襲われた。湯殿に逃れ命は助かったが重傷を負った。ひざの傷が悪化し治療の甲斐なく11月5日に他界した。暗殺の動機は、大村の西洋かぶれと、徴兵制に反発しての事だったという。

 

天誅

西町奉行所与力

渡辺金三郎

東町奉行所与力

森孫六

東町奉行所与力

大川原重蔵

安政の大獄以来志士の弾圧に荷担したため文久2年(1862)9月、
田中新兵衛 岡田以蔵 らにより殺害され粟田口にさらされた。


 
参考:別冊歴史読本 幕末維新暗殺秘史 ほか 


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