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江戸幕府最後の将軍。水戸藩主徳川斉昭の七男に生まれ、後に一橋家を継いだ。第13代将軍家定の継嗣問題では徳川慶福(第14代将軍家茂)に敗れたが、家茂の死にともない15代目の将軍となった。幕府の威信回復を図ったが果せず、1867年10月、朝廷に大政を奉還した。翌1868年1月、新政府に反対する旧幕府側は、慶喜を擁して薩摩・長州軍と戦ったが敗れ(鳥羽伏見の戦い)、慶喜は海路江戸に帰還、周囲の再挙の勧めを拒否して謹慎した。後に許されて公爵に列した。 ●徳川慶喜なるほど話へ
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12歳の時に美濃高須藩より会津藩の養子となる。嘉永5年(1852)会津藩主となり幕政改革に関与。文久2年(1862)京都守護職となり、12月には会津兵1000人を連れて入京。過激浪士の警備、取り締まりにあたった。(新選組・見廻組)また孝明天皇の信任のもと公武合体に尽力した。王政復古後、鳥羽伏見の戦いで敗れ会津へ戻り、会津若松城で抵抗したが敗戦。鳥取藩、紀州藩に預けられ永禁固の処分を受ける。のち許され、日光東照宮宮司となった。
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御三卿田安家に生まれ、のち福井藩の養子となり藩主につく。橋本左内を登用し、横井小楠を招いて顧問とし藩政改革を進めた。将軍継嗣問題では一橋派の中核となって運動した。幕府の政治総裁となってからは幕政改革、公武合体に奔走。大政奉還にのぞみ徳川慶喜に恭順を強く促した。
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江戸の貧しい旗本の家に生まれる。西洋兵法を学び、33歳で幕府に登用された。長崎海軍伝習所で航海術を学び、安政5年(1860)、日米修好通商条約批准交換のため咸臨丸艦長として渡米、太平洋を横断した。文久2年(1862)に軍艦奉行となった。同年8月ごろには、江戸の屋敷で坂本龍馬と初対面をしている。その後、神戸海軍操練所を設け坂本龍馬らが学んだ。戊辰戦争では幕府側代表として西郷隆盛と会見、江戸無血開城を果した。明治維新後は海軍卿などの要職についた。
後年海舟は、「それもそうだ、俺も一言もなかったよ。」と語ったそうだ。
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慶喜は将軍家茂上洛準備の為、文久3年(1863)1月5日、京都に入り東本願寺を宿とした。 1月28日夜、勤王浪士たちは和宮降下に尽力した賀川肇を暗殺、攘夷の血祭りとし、首を東本願寺に置いた。紙には「一橋殿に献ず」とあった。 この年、慶喜は二条城の南の屋敷に移動した。
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容保の京都守護職屋敷は、慶応元年(1865)黒谷の金戒光明寺から、この場所に移動された。 |
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