土 佐 史 跡

 

 

酢屋

(坂本竜馬寓居跡・海援隊京都本部 )

:木屋町三条下ル南一筋目西入ル(龍馬通り)

龍馬と中岡慎太郎像

円山公園

明保野邸跡の碑

:三年坂、写真右手のみやげや前にある

*実際の明保野邸はもう少し下った所にある阪口という料亭の裏方にあった。

近江屋跡

(坂本龍馬、中岡慎太郎遭難之地)

:河原町通蛸薬師下ル、京阪交通社前
京都国立博物館には

当時の血痕がついた屏風と掛け軸が保管されている。

武市瑞山居遇跡(左)

吉村寅太郎居遇跡(右

:木屋町三条上ル

 

 

 

翠紅館跡

文久3年(1863)1月23日に、土佐藩武市瑞山、長州藩久坂玄瑞、井上聞多ら多数が集まり、ついで同年6月17日にも、長州藩桂小五郎、久留米藩真木和泉らが集まった。これら各藩志士代表者の会議で、攘夷の具体的な方法が検討された(翠紅館会議)。同年8月13日には、孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて、攘夷運動は頂点に達した。しかし、8月18日に政変が起って攘夷派は失脚、代って公武合体派が主導権を握り、幕末の政局は混迷の度を加えていった。

:霊山歴史館へ行く途中にある

 

 

本間精一郎遭難之地

岡田以蔵、田中新兵衛による天誅。石碑のみ。

:木屋町四条上ル


本間精一郎 ・・・ 越後国郷士。早くより勤王を唱え、いったん幕府により投獄される。釈放後活動を再開したが、今度は尊攘派の誤解と嫉妬を受け、文久2年(1862)木屋町で斬殺された。29歳。刺客は土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛らといわれる。

以蔵の刀傷?

本間精一郎は、左の石碑のある場所のすぐ南の路地を逃げようとしたところを斬られた。そこには以蔵のつけた刀傷がまだなまなましく残っている。

 

土佐藩邸跡

:木屋町通り立誠小学校前

 

 

土佐四天王像

見えにくいが左から吉村・武市・坂本・中岡

:西木屋町通り(木屋町通りパチンコ屋のところ)

 

 

 

 

智積院

土佐藩主山内豊信(容堂)が文久3年(1863)正月入洛。智積院を宿舎とし、慶喜の相談役となった。3月には武市半平太を京都留守居役に抜擢、半平太を拘束し、攘夷運動は制約されることになった。

長州の久坂玄瑞や、肥後の河上彦斉らが容堂に面会をもとめたが病と称して会わなかった。

:東大路七条下ル(市バス・東山七条)

 

(撮影次第)

 

 

天龍寺 坂本龍馬像

:京福電鉄 嵐山駅下車

 

 

 

中岡慎太郎寓居跡

:河原町通四条上ル東側

(ミキハウス横、鉄の扉を開けたところにたっている。)

 

 

寺田屋

薩長同盟が成った翌日の深夜(慶応2年1月23日)、龍馬のいた寺田屋は幕府の獲り方200人に包囲、襲撃された。風呂に入っていたお龍は驚き、裸のまま2階にいる龍馬と三吉慎蔵へ急を知らせた。龍馬は高杉晋作にもらったというピストルで応戦、手に傷を負ったが2人ともうまく逃げ延びた。

 

京阪電車:中書島駅下車(伏見区)

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