十津川 (1)


 幕末における十津川郷士(とつかわごうし)は勤王の誉れ高く、大藩の者からも一目おかれる存在だった。勤王だから倒幕派ということではない。十津川は大和の五條代官所管理下にあり反幕府派でもない。十津川は古来から正真正銘筋金入りの勤皇派である。
十津川の勤王の歴史は古い。神武天皇東征の際に、十津川の者が道案内をした。
壬申の乱(672年)のときには天武天皇の吉野御軍に参加した。その働きにより税を免除されている。南北朝時代には、後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府討幕の中心的な役割を担った大塔宮護良親王(だいとうのみや・もりながしんのう)が十津川に落ちてきた際に親王を丁重にかくまい保護している。
幕末には京都御所の警備にあたった。公卿中山忠光率いる天誅組にも参加した・・・。
その御所警備の立役者は上平主税であった。




護良親王御詠之碑 
安政四年(1857)八月二十四日建立


十津川郷士が尊攘の決起を誓い建立した碑。
碑の表には護良親王が十津川で詠んだ詩が刻まれている。
「琵琶の音も昔にかえて物凄し  芦迺瀬川の瀬々の水音」
碑の裏には
上平主税藤長矩の名も見られる。




上平主税
(かみだいらちから)



文政7年(1824)9月14日十津川村野尻に生まれる。
紀州にて医学を修め十津川で医師として過ごしたが、黒船来航後時勢に目覚めた。
安政元年(1854)、京に上り当時一流の尊王攘夷志士梅田雲浜を訪ね国事を語る。
ロシア船ディアナ号が大坂湾に現れた際には、梅田雲浜や十津川の同士と襲撃計画を図るが船が下田へ移動したため未遂に終わる。
安政5年(1858)、再び京に上り雲浜を訪ねる。十津川郷士が京都の御所警備で貢献できないかの相談の為であった。十津川は古来から勤皇の誉高い。兵も約千二百名は出せるのが強かった。雲浜は長州系の公卿三条実美や東久世通禧をはじめ、長州藩大坂留守居役などを紹介、さらには青蓮院宮(のちの中川宮)との謁見までも実現させた。
幕末において、「十津川郷士」が知られてきたのはこの頃である。
しかし安政の大獄で梅田雲浜が捕縛され獄死、青蓮院宮は謹慎となりさらに隠居永蟄居の処分を受け計画は頓挫する。
主税は、大獄で荒れた京の時勢をさぐるため再び京都へ上り、御所に近いところにある下御霊神社の国学者出雲路大和守に入門した。
安政の大獄がひと段落すると青蓮院宮の謹慎も解け、やがて沙汰が下る。

「大和十津川郷士、往古ヨリ朝廷ヲ重ンジ奉リ、誠忠ノ輩少カラズ。
 万今容易ナラザル時勢二候間、其ノ遺志相続ケ忠勤ヲ励ムベク候事。」

十津川郷士は晴れて文久3年(1863)8月17日、御所警備出仕を果たす。慣れるまでしばらくは長州藩の警備と共に行動をするようにとの事であった。
しかし翌日の8月18日早朝、クーデターが勃発(八月十八日の政変)。長州藩をはじめ長州派公卿は京都から追い出されることになった。

・・・続く
 


参考:十津川草莽記(吉見良三著)奈良新聞社


幕末京都倶楽部 2003年9月4日号
マガジンID:0000094183



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