史 跡

 

桂小五郎像(長州藩邸跡)

:京都ホテル

河原町御池交差点北東角

 

桂小五郎・幾松寓居の跡

:木屋町御池上ル


旅館 幾松

 

 

木戸孝允旧宅跡

病の孝允を、明治天皇がここまで見舞いにきた。

:旅館石長・・木屋町二条のホテルフジタ西横の細い通りを上がったところ

妙法院

:市バス東山七条下車

 

 文久3年(1863)、八月十八日の政変がおこり、攘夷派の公家たちは排除された。妙法院で久坂玄瑞、真木和泉、宮部鼎蔵らと、戦うか退くかの話合いをし(妙法院会議)、結局、長州へ西下する事になった。(七卿落ち)


「振りしく雨の絶え間なく 涙に袖の濡れ果てて これより海山、浅茅が原 ・・・・・」久坂玄瑞の美声が響いた。長州藩兵に守られ七人の公卿は竹田街道を伏見に向かっていく。その七人とは三条実美、三条西季知、東久世通禧、四条隆謌、壬生基修、錦小路頼徳、沢宣嘉のことである。

 七卿落ちの図

 

蛤御門

:京都御所

バス:烏丸下長者町

地下鉄:今出川駅

最も戦闘の激しかった蛤御門には当時の銃弾痕が今も残っている。

また門を奥へ進むと木島又兵衛が討死した場所に高札がたっている。


堺町御門

バス:裁判所前

地下鉄:丸太町駅

 

 

蛤御門の変

元治元年(1864)7月19日京都御所蛤御門近くを中心に、長州藩が薩摩、会津藩などと戦った事件。禁門の変ともいう。この戦により、久坂玄瑞が命をおとした。


文久3年(1963)には、薩摩・会津両藩の公武合体派が、三条実美ら急進派公卿を退け、長州藩の御所警備の任務を解除し、長州・土佐を中心とした尊王攘夷派を一掃した「8月18日の政変」が、元治元年(1864)6月5日には 長州藩士 吉田稔麿が新選組に殺された「池田屋事件」が起こっていた。

6月15日長州藩は勢力を回復すべく兵を率いて進軍開始。24日には京都・伏見に到着。@久坂玄瑞真木和泉の本隊は山崎の離宮八幡から宝寺の一帯に、A木島又兵衛・国司信濃は嵯峨天龍寺に、B福原越後は伏見の三方にそれぞれ陣をかまえ、19日、辰の上刻(午前7時)までに、蛤御門から乾御門にかけて出撃する打ち合わせになった。

7月19日午前12時頃、まず伏見勢(福原越後)が伏見街道を北上し藤森付近で戦闘開始。しかし砲弾をあび総崩れとなり退却。

次に天龍寺勢(木島又兵衛・国司信濃)、午前2時ごろ出陣。仁和寺街道を東へ進み、堀川通り一条の戻橋で2手に別れた。木島又兵衛は蛤御門へ、国司信濃は中立売御門にむかい、それぞれ約束の時間に御所に突撃した。木島隊はあっという間に蛤御門を破り会津兵をけちらした。友軍の桑名藩は逃げ出し、慶喜の直属一橋勢も乾御門の方へ退却するありさまだった。しかし薩摩藩が応援にかけつけ、その小銃部隊により国司信濃の軍を追い散らし、木島又兵衛は狙撃され たおされると、長州軍の勢いがなくなってきた。

.

左)離宮八幡、右)宝寺 (最寄り駅・JR山崎、阪急大山崎駅)

戻橋

山崎勢(久坂玄瑞・真木和泉)は前日午後8時ごろ山崎を出たが悪路により遅れた。午前8時頃に柳馬場通りを北上し、堺町御門に到着した頃には、すでに木島又兵衛は戦死した後だった。堺町御門の福井・薩摩藩の勢いにおされた山崎勢は堺町御門手前の鷹司邸裏門から屋敷内に入り銃撃戦を始めた。しかしすぐに屋敷に火がはなたれ包囲された。真木和泉は天王山まで退却したものの自刃。入江九一は福井藩兵に頭を槍で突かれ討死。残った久坂玄瑞、寺島忠三郎は自刃して果てた。

御所や長州屋敷(長州藩留守居役が自ら火をつけた)から発した火は、北は御所から南は九条まで、東は寺町通から西は堀川通までに達し、家27517軒のほか東本願寺や仏光寺などが焼失。3日間燃け続き京の都は焼け野原となった。六角獄の悲劇もこの時に起こったのだった。

翌年、幕府は第一次長州征伐の兵を起こした。

 鷹司邸跡

 

東福寺

 

慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いの際、長州藩は東福寺に本陣を置いた。

:京阪電鉄東福寺駅、市バス東福寺下車

[目次] [長州]