長 州

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吉田松陰

(1830〜1859)

9歳にして藩校で兵学を講義する秀才。20歳の時に山陰・九州に遊学。江戸では佐久間象山に学ぶ。22歳の時、宮部鼎蔵の誘いで東北に旅に出て見聞をさらに広めた。25歳の時、ペリーの軍艦に密航を企て失敗。萩の野山獄に入獄となった。仮出所後は、松下村塾を主宰し、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋らを育成した。

日米修好通商条約締結には反幕府の言動を強め、朝廷に圧力を加える老中間部詮勝暗殺を図るなどしたため、幕府によって江戸伝馬町獄に送られ、安政の大獄に連座する形で処刑された。


松陰の京都・・・嘉永6年遊学の途中の京都で梅田雲浜を訪ねた。「雲浜は精密、策あり。ただし大計にはすこぶる疎なり」と萩の兄梅太郎に手紙をおくっている。のちに松陰は安政の大獄で伏見に捕らえられた雲浜を救出すべく赤根武人を京に送ったが失敗した。しかし、皮肉にもその梅田雲浜の供述によって松陰は江戸へ送還されることになるのだった。・・山岡宗八「吉田松陰」より
萩市HPJTB萩観光地

月性

 

 

桂小五郎

(1833〜1877)

藩校明倫館で吉田松陰に師事。長州藩のリーダー的存在。広く諸藩の志士と交流し尊王攘夷を推進。また、薩長同盟の締結に成功し、倒幕派の指導者の一人となった。


小五郎は文久2年(1862)5月京都にはいった。そこで世子定広、ついで藩主を説得し、公武合体論から攘夷へと藩論をかえた。諸藩や朝廷にも働きかけ、やがて京都は尊攘派が勢力をしめるようになった。

ところが文久3年、「8月18日の政変」がおこると、小五郎は京都を脱出。しかしすぐに久坂玄瑞と京都に戻り裏工作を開始した。

翌年元治元年6月、池田屋の会合に顔を出す予定だったが人数がまだ揃っていなかった為、近くの対馬藩邸にいった。その間に新選組が池田屋を襲撃。小五郎は翌日まで対馬藩邸で過ごし一命を取りとめたのだった。

同 7月長州軍が蛤御門付近で戦闘を開始、小五郎が駆けつけた時には長州兵は撤退を始めていた。長州藩邸は幕軍に焼かれ焼失。逃げ場を失った小五郎は二条大橋の下の乞食の群れにまぎれ込み、乞食に変装。食事は幾松が運んでくれた。およそ5日後にやっと但馬の出石へ脱出することができた。

慶応2年再び京都へ。薩摩藩邸で歴史的な薩長同盟の密約が成立した。


霊山護国神社には「木戸孝允」の墓が、ならんで幾松の墓がある。

:市バス 東山安井 下車

桂小五郎の謎

木戸孝允(NTT山口) 

 

 

 

高杉晋作

(1839〜1867)

久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧と呼ばれた。後に江戸の昌平黌でも学ぶ。1862年、上海に渡って欧米列強の侵略ぶりを目のあたりにし、帰国後、江戸品川のイギリス公使館を焼き打ちにするなど攘夷運動を展開。1863年、身分に関係なく入隊できる軍隊「奇兵隊」を結成し維新倒幕の原動力となった。第一次長州征伐の敗戦をきっかけに藩内保守派を打倒し、実権を掌握、藩論を倒幕へと転換させた。第二次長州征伐では総指揮官として勝利した。しかし維新を目前に肺結核を発病、下関で息をひきとった。

「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」 と評された。


文久3年(1863)江戸で学習院御用掛の任命を受けた晋作は、3月9日京都にはいった。将軍家茂が上賀茂下鴨神社へ攘夷祈願のため丁度上洛していた時期だ。その行列の当日、三条大橋で晋作は 「いよーっ!征夷大将軍!」と前代未聞のヤジをとばしたのだった。

将軍暗殺を思い付いた晋作は早速決死隊を組織。将軍家茂が出てくる御所の御門から鷹司邸の間で行動をおこす事にした。しかしこれは失敗に終わった。

学習院御用掛を任命されていたが、気にいらず、また将軍家茂暗殺計画も失敗に終わった為、周布政之助に10年の賜暇(休み)を願った。晋作のことだからしかたないと受け入れられ、翌日には頭を丸めて東行≠ニ号した。文久3年3月16日の出来事である。

「西へ行く人を慕ふて東行く わが心をば神や知るらむ」

しかし毎晩、祇園ではどんちゃん騒ぎ。大きな饅頭笠をかぶって腰には短剣をつるして市街を傍若無人に横行、まるで狂人だったそうだ。

祇園 「一力」

「坊主頭をたたいてみれば安いすいかの音がする」

などと都都逸をうたってみせたりしたという。3月26日、晋作は京をあとに萩に旅立った。詩人の晋作はここでもまた一句。

「われ去ればひとも去るかと思ひしに 人々ぞなき人の世の中」


高杉晋作 (下関)●東行

功山寺東行庵野村望東尼

 

 

久坂玄瑞(義助)

(1840〜1864)

長州藩医の家に生まれる。吉田松陰に学び防長第一の俊才と評され、また松下村塾の双璧といわれた。(松陰に気に入られ妻には松陰の妹をもらった。)早くから尊攘の志を抱き、諸藩の志士と交わった。光明寺党を結成し、文久3年(1863)5月10日攘夷の期限日に下関で外国船を砲撃。京都で学習院出仕となってからは朝廷工作で実力を発揮。しかし、八月十八日の政変で長州藩が政局の主導権を失うと、翌元治元年(1864)、玄瑞は武力で回復を図ろうとする長州軍に加わって上京。蛤御門の変を起こしたが敗れて鷹司邸で自刃。25歳だった。


島原角屋には「久坂玄瑞の密議の角屋」の石碑がたっている。

西郷は晩年長州出身の訪客に、「久坂さんがこの明治の御代まで生きておられれば、この西郷などは参議などと申して大きな顔をしておられませぬ。」 といったそうだ。

 

 

大村益次郎(村田蔵六)

(1824〜1869)

周防の村医の子として生まれた。大坂の緒方洪庵の適塾に学び、塾頭となった。嘉永3年(1850)故郷に戻り村医者になるが、嘉永6年に宇和島藩主伊達宗城に召し抱えられた。のち桂小五郎の働きかけにより長州藩での召し抱えとなる。慶応元年(1865)高杉晋作の推挙により軍事指揮をとるようになり、その時大村益次郎と改名。、四境戦争、上野戦争などで成功をおさめた。「火吹きだるま」とは高杉がつけたあだ名である。明治2年8月京都三条木屋町付近で暗殺団に襲われ、それが原因で11月に没した。


総督府資料館

 

 

伊藤俊輔(博文)

(1841〜1909)

周防の農民の子として生まれた。のち足軽伊藤家の養子となったため伊藤姓をなのる。安政3年(1856)藩命で浦賀警備に勤めた際、隊長の来原良蔵に才能を見いだされ、翌年、来原の紹介で松下村塾に入門。文久2年(1862)高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多らと江戸品川のイギリス大使館の焼き討ちに参加。翌年、藩命で井上聞多らとロンドンに留学。しかしその翌年、ロンドンで下関外国船砲撃の報復としてイギリスなどの四ヶ国連合艦隊の長州攻撃計画を知り、井上聞多と2人帰国。交渉にあたった。その後、高杉晋作を助け武力倒幕に参加。長崎で兵器、汽船の買い付けなどもした。

明治政府では外国事務局判事、兵庫県知事などを歴任。明治2年には大蔵少輔となり、このころ名を博文と改めた。明治18年(1885)には初代内閣総理大臣となった。


藩命で上洛した際には、梁川星厳、梅田雲浜らとも交流した。

伊藤公資料館電脳頁

兵庫県知事伊藤博文

千円札 

 

井上聞多

(1835〜1915)

周防の地侍井上の家に生まれる。20歳の時、萩の士志家の養子となった。万延元年(1860)藩主毛利敬親の小姓役となり、聞多の名を授かった。文久2年(1862)には世子定広の小姓役となる。また高杉晋作らと江戸品川のイギリス大使館の焼き討ちをした。文久3年(1863)士志家を分離し井上姓にもどった。伊藤俊輔らとロンドンに留学したが、翌年、四ヶ国連合艦隊の下関攻撃計画を知り伊藤俊輔と帰国。交渉に尽力した。また藩内の保守派に山口で襲われ重傷を負った。慶応元年、高杉晋作の藩内政権奪回の反乱の際、参戦。翌年の第二次征長戦では芸州口の参謀として活躍、厳島で幕臣勝海舟と休戦協定を話し合った。

明治政府では外務、大蔵などの大臣を歴任。退任後も元老として活躍。三井など財界に強い影響力をもった。


聞多は京都祇園の売れっ子芸者、君尾にもらった鏡をいつも大事に懐にしまっていた。山口で襲われた時は、この鏡が、とどめの刀をくい止め助かったのだった。

山口湯田温泉

 

 

吉田稔麿(栄太郎)

(1841〜1864)

松下村塾四天王のひとり。元治元年(1864)6月、池田屋で新選組に襲われ自刃。

享年24歳。

 

 

入江九一(杉蔵)

(1837〜1864)

松下村塾四天王のひとり。松陰の間部詮勝暗殺計画の血盟者の一人となった。また松陰の秘密工作に携わり、それが藩に知れて萩の岩倉獄に入れられた。獄中で松陰の死を知った。釈放されたのち、文久3年(1863)上洛。長州水戸同盟をはかり、足利三代木像梟首事件の赦免を運動。5月の攘夷期限日には下関外国船砲撃に関与。6月、高杉晋作と奇兵隊を創設、参謀となる。元治元年(1864)7月、蛤御門の変で参謀となるが戦死。享年28歳。


杉蔵は松陰精神の継承において最も純粋だったといわれる。

 等持院の足利三代木像

:京福電鉄北野線等持院駅

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