留学時代私談

       その一

 私はかねて、留学時代の思い出咄を命のある内に書き残して置きたいと心の片隅で企てていたが、中々このような余悠は実生活の内にはないものである。父が明治三年頃に藩の貢進生として開成学校に入り、間もなく海外留学の命をうけて米国経由ドイツに渡り、ベルリン大学のK.W.ホフマンの教室に入って有機化学を学び明治七年に帰朝したという、あらましといっても以上だけの事実の、ほんの切れはしだけは知っていた。
 もっと具体的のこと、例えば何年何月東京(横浜?)を出発し、何年何月にサンフランシスコに着き、どんなに驚いて大陸横断列車で米国の東部に運ばれ、またどこから船に乗ってドイツのどこの港に着いたとか、またベルリン大学の当時の様子はどうであったか、世界的に有名なホフマンとはどんな人であったか、などなどのことを何かにつけ父からじきじきに聞いて置くべきであったが、遂に父は重病に陥り、私共兄弟が重病の父を母の手のみにゆだねて遠くドイツに行くという運命に立ちいたったことは、あとから思えば親不孝の極み、即ち父と私たちとの間にもっと早い時分から親子らしい心の通いがあってよかったものを、と悔やんでも悔やみ切れないものがある。
 こんな次第で、自分の若い頃の外国での見聞や経験や感想やなどを思い出るまま書き記して置けば、倅など自分成人後の父は知っていても自分が生れる前、生まれてからもの心のつくまでの父は知らないから、この文章を見る機会のあるとき何等かの興味を呼ぶであろうし、孫に至っては、おじいちゃんとしてしか知らない一人間の、世間を渡って来た道筋やその左右など、大人となってから読む機会がありとすれば、また一種の感興を呼び起こすかも知れない。

 こんな心持から、今回の病院生活の退屈しのぎにゆっくりと考え考え筆を執って見ることとした。只病院には何等の参考資料を携え来たっていないので、たよるところは記憶しかない。いずれ正誤加筆をしなければなるまいが、これは纏まった上での話である。今遠い昔を瞑目して思い出し、不図湧きいずる感想を筆にして置くことは目下の退屈に対処する絶好の仕事である。

 さて私は明治四十年七月に東京帝国大学理科大学化学科を卒業し、別段就職の意志もなく、また化学という学問の興味に大にひきつけられたときであったので、父や兄に相談することもなく、殆ど卒業後自動的に大学院に入ってしまった。

 当時大学に於けるわれわれの化学の先生はおん大桜井錠二先生、池田菊苗先生、垪和〔ハガ〕為昌先生、松原行一先生、以上が教授、真島利行先生が助教授、という顔觸れであった。
 桜井先生の名講義(有機化学)は私を魅了して有機化学を専門とし、分子構造など研究して見たいと決心させた。尤も私の卒業の前年に松原先生が留学から帰朝せられ、有機化学の講義を担任せられたので、当然大学院に於ける私の有機化学の研究題目は松原先生が撰ばれた。この研究も、実験的にある点まで解決つけるのに約一年かかり、これを東京化学会(今日の日本化学会の前身)の席で発表し東京化学会誌に投稿した。
 次の研究題目も松原先生が撰ばれたが、これは当時有機化学界で一つの流行のようになっていたグリニファール反応に関するもので、この反応をオルソフタール酸エステルに対して行わせ、反応の行程と反応の果成物質の構造確定というものであった。結局最後にできた物質は予想されたものではなく、この構造決定にはかなり苦労した。暑中休暇中、厚紙で炭素の立体模型をいくつか作ってこれをいろいろに並べ、一点や一線、また面で接觸させて最も可能性の高い構造の分子を考え、これと合成物質の分析値とを併せ考え、遂にこの合成物質の構造を最後的につきとめ得たときは実に嬉しかった。

 この結果を東京化学会誌と ロンドンの化学会誌に報告した。また東京化学会の例会でこの研究結果を発表したとき、たまたま出席して居られた長井長義先生や田原良純先生などが、私を若い内に留学させよと桜井先生や当時の総長浜尾先生などに勧告せられたそうである。
 桜井先生としては、理科大学にまだ海外留学の順が廻って来ない先輩が多数居られるので一寸躊躇せられたものの、一方文部省の当局にも話され、大学とは別途の文部省特派という形で留学を取計らってくだされ、その実現を見たのが明治四十三年五月の事であった。留学にあたって桜井先生の云わるるには、欧州でどの方面の研究をしてもかまわないが帰った後には無機化学の講義をして貰いたい、何故というに当時、無機講座の担任者垪和先生が健康を害され、辞意を洩らして居らるるからその後継者の心がまえを頼む、ということであった。
 病床の父からの激励を受けて枕頭にぬかずき家を出たのは明治四十三年五月二十七日のことで、船室の取ってあったのは日本郵船の丹後丸という七千余噸の、当時としては新鋭貨客船であったが、これに乗るのは横浜からが常識であるが父は神戸から乗れと命ぜられ、神戸までの汽車旅には彫工(板木職)で茶や香の宗匠として我家に出入していた藤井鉄之丞に同伴を頼み込まれたのである。翌朝早く神戸に着いたときは雨が降っていた事を思い出す。

 当時郵船重役で横浜の支店長をして居られた永井久一郎さんが、船室や荷物など何くれと世話を賜った。永井さんは父が明治初年に留学するとき同じ船でアメリカに渡り、永井さんはアメリカに止まり、父は更に大西洋を横切ってドイツへ行った次第である。
 かように私等親子の外国行に父は同僚として私はそのせがれとして二代にわたってお世話を蒙ったのは、一つに永井さんが我家族と同様名古屋出身の方で同郷人としての親切からでもあった。永井さんの令息方として荷風、鷲津貞次郎、威三郎の諸氏を私はいずれもよく知っていて、荷風、貞次郎両氏は既に物故せられたが威三郎君とはいまだに寒暄の挨拶を交わす間柄である。

 船が出たのは昼頃と思うが、勝井が船中まで送り来たって一等船室の様子など逐一見て帰った。父も勝井からの報告を待っていたことと思う。この船の一等船客中には蔵前の高等工業学校(現在の大岡山の工大の前身)の校長手島先生及びその令息田辺壮吉氏は、当時開会中のロンドンの萬国博覧会見物のため、司法省の役人真木〔サナギ〕喬氏は役所より欧州の裁判所視察のため、またシンガポールの副領事として赴任の若い外務省人近藤氏、海軍大主計服部氏、その他で以上の人たちとは食堂で同卓仲間、この卓のホストは機関長の藤村氏であった。

 当時欧州航路の郵船は船長は必ず外人、次にファーストオフィサーか機関長かのいずれか一人も外人でなければならないという不文律があって、丹後丸の最高の邦人責任者は藤村機関長であったわけである。この快活な機関長からわれわれは海についての話をいろいろ聞かされた。吾人のサークルで洋行の経験者は手島先生だけで、先生は当時六十才を少し出ておられたかと思う。

     その二

 実はその折の丹後丸の一等船客としては外人の方が多かった。そしてこの連中は一つのサークルを作って大卓を占め、そのホストは云うまでもなくノールウェー人の船長Christiansenと、英人のファーストオフィサーでつとめていた。そして食事中など相当賑やかであった。 
 私はそれまで外人の生活やマナーなど、書物の上では多少心得ていたものの、このように生きた外人が多勢で、船中とはいえ、一つの生活環境の内でソーシアルライフを楽みつつある情景は初めて見たわけゆえ興味もあり、今後三年余を欧州で暮す際の参考にもなった。勿論彼等の間にも人間としてのもろもろの愛憎離合があったようで、日本人グループでもいろいろ噂をしたものである。
 郵船の船は上甲板を全部一等船客に提供し、二等船客は下甲板より上ることがゆるされない仕組になっていて、一等船客が廣い上甲板で涼んだり、デッキビリヤードを楽しむのを見て二等甲板連は嘸かし憤慨していたことと思う。

 丹後丸時代にはまだ内燃機関が大船に使用されていなかったので、粉炭を燃料とした蒸気機関が推進用エネルギーであった。随って途中で石炭の積込みを二度行った。確かシンガポールとアデン(?)であったように覚えている。石炭といっても塊炭でなく粉炭であるから、積込みの際船は真黒になる。このためお客はその間上陸してホテルにでも泊るか、船の前方にあるホールで仮眠する外はない。
 何故というに一等の船室は皆扉を新聞紙で目張を行うので、自分の部屋にも入ることが出来ない。石炭を焚いて航海している間は太い大煙突から盛に煙を吐いているので、機関長は絶えず甲板から煙の具合を眺め、あまり黒い煙を出すと自身機関室に降りて行く。

 神戸を五月二十八日に出帆し、七月十四日にフランスのマルセイユに上陸するまでの四十九日間に入港したのは上海、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、アデン、スエズ、ポートサイド、マルセイユと終点までに九つの港に出入したわけである。
 そして上海では鶏卵、コロンボでは紅茶、ペナンではゴムと錫、などなど、港々で二日ずつ位かけて荷積みをする故、航海日数も五十日近くかかるわけである。そして七月十四日といえばフランスの国祭日、その払暁にマ港に錨をおろし、上陸したのは正午近くであった。

 マルセイユ埠頭には手島先生旧門下の、蔵前出身の森山氏が出迎われ、いろいろ世話をせられた。ここで手島先生一行はロンドンへ向け、真木氏はドイツへ、私はスイスのチューリヒへ、とそれぞれ行先が違うので電報や郵便などの世話はみなこのリヨン在住の蔵前人が引受けられた。そしてこの人はスイス方面へ汽車の出る停車場まで私を送って下さった。
 ここからは私は一人旅となるので少々心細かったが、それでもリヨンの乗換も無事に済ませ、翌日の午前にチューリヒ停車場に降り立ったときプラットフォームまで真島先生と朝比奈泰彦君が出迎われ、嬉しい限りであった。
 これから先のことは既にいろいろの場合に詳しく書いたことがあるので省略する。(「化学界四十年の見聞」〔化学の領域〕、田中実『日本の化学と柴田雄次』など)

     その三   ベルリンの夏期講習

 私がチューリヒを後にしてベルリンに向ったのは明治四十三年七月十八日のことで、車中図らずも、後に東京帝大工科の教授になられ、当時は鉄道省の技師であった朝倉希一氏と一緒になった。同氏は専門が違うのでそれまで一面識もなかったが、この列車中只二人の日本人なのですぐに言葉を交わし、即席友人の間柄となった。

 十九日午前九時ベルリンに着き(アンハルター停車場)、汽車を降り立つとそこに兄が立っていた。兄はこの年の三月に東京を出発し、敦賀港から浦塩港に渡り、そこから西伯利鉄道でモスコー経由欧州へ赴いた。
 その主目的はベルギーのブルッセルで開会せられた萬国植物学会に出席し、引つづき欧州に私費留学する為で、私が日本を後にした頃は既に植物の萬国会議も了り、ベルリンに移って私の到着を待っていた次第である。兄が当時滞在していたのはシャルロッテンブルグのサビニープラッツに近い素人下宿で、一先ず私もこの家に落付いた。

 ドイツの大学は七月後半から十月後半まで長い暑中休暇が続くので、其頃は暑中休暇が正に始まらんとするときであった。
 一日兄とその友人の九大医学部の石原教授等と、ベルリン大学の有機化学教授ガブリエル博士の講義を聞かせて貰いたい、と申し込んだ處が同教授は快く承諾せられ、この学期最後の講義に四回程出席した。一度は染料の講義で、いろいろの染料で綿糸を染めて見せたり、また一日は香料の話で、ドロップスを盆に盛って学生に廻して一つずつつまませたり、誠に世話に砕けた講義振りに驚いたことを思い出す。

 さて、兄は十月に始まる冬学期から、ライプチヒ大学の長老、植物学の大家フェッファー教授の研究室で一ケ年研究に従事し度い希望をもち、既に手紙でフェッファー先生と交渉し、その内諾を得ていた。それまでの二ケ月をなるべく有効に過し度いものと、私といろいろ談合し、この夏中をベルリンに止まり、ベルリン市内にあるいくつかの博物館廻りや近郊勝地の見学等を行うこととした。

 ベルリン大学の無機化学の教授ローゼンハイム博士とマイヤー博士は、共同でベルリンの下町ともいうべきショッセー街に私実験室を有し、暑中休暇中希望者にプラッツを与え化学実験の指導を行っていた。これは大学生でドクトルアルバイトを急いでいるものに、休暇中も休まないで研究の進行を助ける目的もあって、数人の化学学生もここで働いていた。
 また外来の志望者にも化学実験の便宜を与えてもいた。そこで私たち兄弟及び兄の友人のお医者、石原さんも加わって、毎日半日をここで過すことにした。

 この実験室の一階は大きな荷馬車のガレージで、ガラガラと荷物満載の大荷馬車がたえず出入していた光景は、何となく中世の錬金術ラボラトリーとでもいいたい不思議な光景であった。

 この夏期講習で、私はローゼンハイム教授の指導の下にコバルトの錯塩の合成を練習した。これはいずれウェルナーの教室に入るであろうときの予備知識を身につけて置くのが目的であった。そして一ケ月間に多種の錯塩を合成し、構造と色とを実際に知ることができて誠に有益であった。

 一方、ドイツ語の習練も必要であるので、下宿に近い所にあったベルリッツ学校にも通った。ベルリッツ学校というものは外国人にいろいろ希望の語学を教える学校で、大体個人教授制を取り、最初一ケ月の切符を買うと教師を指定紹介せられ、一時間この先生からドイツ語を習い、ビリビリと一枚の切符をちぎって教師に渡すと、先生はダンケシェーンといって電車の切符のような一片を受取って、又明日というわけで、即ち語学の運転手である。
 三十枚の切符がなくなる頃でも勿論大した進歩はしないが、いくらか耳と舌がドイツ語に狎れて来たことは争われない。

 ベルリンも、往昔は東西間に城壁などない大ベルリンであったからその面積は中々大きく、歴史的又科学文化的の展観対象が決して尠くない。ずいぶん種類の多いいろいろの専門博物館や美術館があるが、美術館はその蔵品が一流的ではなく、これはドレスデンに数疇を輸している。
 宮廷所属の宮殿なども、ポツダムにしろシャルロッテンブルグにしろ、到底英仏等が有する諸遺構の足下にもよりつけない。これはプロイセンと云う国家がドイツ聯邦盟主とはなったが、元来成り上り国家で、先祖代々の蓄積がないためである。

 とは云うものの、極東からの遊子が暑中休暇をもてあますことの決して無いくらいの、古典的文化的見学対象物は充分にあった。その内でも音楽やオペラに至っては極東の遊子も一言の批判なく頭を下げざるを得なかった。実は私はこの七月十九日にベルリンに着き、二十一日の夜早くも兄と一緒にオーパンハウスにタンホイザー見物に出掛けた。何分にもこの方面では全くの田舎漢のわれわれは、音楽と舞台の規模と絢爛さに全く圧倒された。

 その後私は三年あまりの滞欧中、ドイツ、スイス、フランスなどでずいぶん澤山のオペラを見、且つタンホイザーもそれらの国にて必ず一度は見たが、このベルリンに於ける最初の強烈な印象は今でも忘れることはできない。

     挿話--ワンツェ

 ベルリン滞在中、八月一日に突然、ライプチヒへ一泊で出掛けることになったおかしな出来事を記して置くのも、一興であろう。それはこうである。
 兄が前から滞在していた、シャルロッテンブルグのサビニープラッツに近い一素人下宿に私も草鞋をぬいだことは前にも記したが、この家はかなり古い頃の建築であることはその様式からもわかる。
 さて、昔から日本の家庭には蚊や蚤はいないことはなかったものの、南京虫というものは絶無であった。しかし、明治二十七、八年の日清戦争後暫くしてから、中国人留学生が追々に、東京を始め、専門学校や大学のある他の都市に多勢来るようになってから、彼等のお土産としてこの南京虫が、これら都市の安下宿にはびこるようになったと聞いてはいた。しかし一般家庭にまで侵入するということは全くなかった。
 しかし欧州の大都市には、一流ホテルや全くの新築住宅は別として、この南京虫(ドイツ語でワンツェ)が住みついていることは、現今の東京のゴキブリに似たところがある。ワンツェの悪いところは、昼は家具やベッドなどのすき間にひそんでいて、夜に入ると活動を始め、人間のいき血を吸うのである。そしてその疵あとは、到底蚊や蚤のそれとは比較にならない程悪質である。

 ベルリンばかりではないが、欧州の大学所在の街の住宅にときどき空間あり、の札(Zimmer zu vermieten)が掲げられているのを見かける。外国学生などはこの札をさがして、これと思う家に入り、その空間を見せて貰う。先ず第一の関心事はワンツェが住んでいそうか否かであるらしい。
 即ち日当りよく清潔で、家主が注意して害虫駆除に関心がありそうと見れば、いろいろ條件を話し合ってきめるというのが普通だ、と先輩から聞かされていた。また家主としても、ワンツェが自分の家に出没することは恥辱であるとしていた。

 さて、兄がベルリンで腰を下していた家に私も入ったが、初の程はワンツェのことは一向気にも止めなかった。ところが、段々日がたつに随って、ときどき手首など虫にさされたあとを見出すようになり、やがて頚のまわりにも疵あとが著しくなった。
 そして八月一日の朝のこと、遂にこの悪虫の正体を発見し、ベッドの白布にも血痕を見出すに至った。私は殊にこの虫に弱いと見え、あちこち赤く腫れ上った被害の痕を数えたら、なんと全身に三十余ケ所もあった。

 これは最早我慢ならぬと早速兄に相談したところが、既に二ケ月程もこの家に寝起していた兄は全然ワンツェの攻撃は受けなかったというのである。人間の体質にこうも違いがあるかと驚いた次第である。
 しかし私の頚すじの赤く腫れ上っている状況を見た兄も、これは容易ならぬことだ、宿を変えるのが何分にも先決問題である、これが昨日であったら支払も済ませ七月限りでこの宿を捨ててもよいが、今日となれば只一日で又一ケ月の新契約となり大損害をきたす、兎に角いずれは行くべきライプチヒに一泊で出掛け、この問題をゆるゆる考えよう、ということになった。

 八月一日の午前に一応荷物を纏め、旅行に出ることを家の主婦に告げ、怪しむ彼女の眼を後に感じながらもこの家をいで、この日の夕刻ライプチヒに着き、フェッファー先生を訪問し、また同地で新見(文)氏、鈴木(農)氏など兄の友人を訪ねなどし、翌二日の夜遅くベルリンの宿に戻ったら、八月二日即ち今日、父上逝去の電報が来ていた。
 以上のいきさつはこれ又しばしば私は他の場合に書いたので、詳しいことは省略するが、一言次のことをつけ加えて置きたい。それは翌三日の朝から二人で下宿探しに出掛け、とある町を歩いていたら行きずりの一老婆が、あなた方、部屋を探しているのではないか、と問いかけて来た。
 然りと答えると、さあ来なさいと手を引張らんばかりにして数間先の一新築アパートに入り、二階の戸を叩いて出て来た主婦にわれわれ二人を引わたし、さっさと帰って行った。礼一つ云う暇もなしである。この家こそは全くの新築で、引きあわされたこのエタージの外はまだ大工が働いている次第であった。
 この新築の家主は老薬剤士で、夫婦の間に十四才という坊や一人という静かな家族で、貸して呉れた二部屋は清潔そのものであった。主人の名はダイニンガー、白髪の好々爺であった。
 早速旧下宿に戻り、何故宿をかえるかと切りに引き留めようとする主婦の言葉をきかずに荷物をまとめ、只一日の滞在に半ケ月分払えという要求通りこれを支払い、その日の内に新築の新居に引っ越した。
 わずか一時間も歩かぬ内に理想の新築アパートにぶつかったというのは、若かりし頃ベルリン大学に学ばれた父上の魂の手引かと、私はほんとに心の内で感謝の念にかきくれることであった。ワンツェの苦労話はこれでおしまいであるが、この新居には十月十日頃まで二ケ月あまり厄介になって兄とベルリン生活を楽しんだ。

     その四   莱府忠府物語

 ベルリン滞在中に、ライプチヒの新聞に部屋を求める一行広告をした處が十通ほどの返事が来た。そこで実地見聞して條件の適否を判断すべく、九月二十八日にライプチヒに赴き、大学研究室を中心として都合のよさそうな数軒をのぞきあるいた上、その内で新築の一軒を取りきめた。ライプチヒは物価がベルリンよりは幾分安く、かなり広き二間つづきを百六十マルク(当時の換算で日本貨八十円)で借りることができた。
 ヘロルド夫人というのが家主であるが、そのご亭主は予備軍人との事であった。この家へ引越したのは十月十五日で、荷物の運送は一切ベルリンの運送屋ワルゲトというに任せたが、適当の箱を持ち来って忠実にやって呉れた。
 われわれ兄弟のライプチヒに於ける学的生活のことは他人には興味のないことであるからこの物語の内では述べない。

 ライプチヒはその大学でも聞えた一市であるが、その本命は商業都市で当時人工五十萬位であった。この市の外観は全く地味で、これという名所も風致区域もなく殺風景そのものであった。
 その一つの理由は、この街は平野の上に作られ、貫流する大河もなく街のアクセントになる阜丘も無い。大河あれば美を競う数本の橋梁を架して街に風致を添え得べく、阜丘あれば林野の趣きを点出して市人に行楽の境を供給する。處がこの商業都市、歴史を語る宮殿や城廓の類を持たず、只中央廣場の周囲に、型の如く新旧の劇場と市庁、博物館等を有するに過ぎない誠に平凡な欧州の一都市である。
 只ライプチヒの名物は秋季に催される商品見本市で、これはメッセと称しドイツ全国から毛皮、繊維織物始めもろもろの消費商品が業者によって持ちよられ、展示取引せられる。これは相当古い歴史があるらしく、ライプチヒメッセはドイツ全国の一つの名物となっていた。また、ここに集まる商人たちはメッセオンケルと呼ばれ、皆それぞれ民宿に陣取り、漫画の好材料で、その絵はがきなどよく見かけたものである。

 当時ライプチヒにいた日本人は十五六人で、皆大学の各学部で研究に従事している学者達で、月に一度、あるレストランに集って夕食会を催し、夜半まで語り合った、
その内に一人M氏という名物男がいた。この人はさる大製薬会社のおん曹司であった。年の頃四十を越して見えたが、既に滞留十年あまりに及び、家よりいろいろの手段を尽くして呼び戻しをかけても一向に帰ろうとしないので有名であった。このM君も日本人会の常連であった。

 その頃ライプチヒには二人の親日ドイツ人がいた。その一人は名誉領事のモスレー氏で、この人は嘗て相当長く東京に住んでいたとのことで、日本政府から名誉総領事の称号を貰っていたが、人柄の良い紳士で、日本政府から何等の報酬をも得ていないにも係らず、よく日本人の世話をし、十一月三日の天長節には吾人を自宅に招待して家族ぐるみで接待して呉れた。
 また今一人の親日家はズスマン氏で、この人は相当の老人であったが、屡々邦人を招待して歓待して呉れた。ズ氏がどういう経歴の人かは忘れたが、兎に角奇篤なドイツ人であった。

 ライプチヒは殺風景とは云ったが、ここの名物としてトーマスキルヘという教会堂がある。外見寧ろ粗末な会堂だが、ここの日曜礼拝の折の音楽――主として合唱だが、これは有名で音楽愛好者は一度はこの教会の日曜礼拝にお参りする。
 今一つの音楽名物はゲワントハウスの演奏で、その指揮者はドイツで第一級の人が棒を振っていたので、此市を訪う音楽好きの邦人は必ず一夜をここの演奏会場ですごすことを忘れない。

 私たち兄弟は夜はよくオペラ、古典や新劇の芝居を見物したが、昼は忠実に研究室に通って研究にいそしみ、両人とも論文を纏めてそれぞれの指導教授に差出すことが出来たのは明治四十四年(一九一一)の初夏の頃であった。

 満一ケ年をライプチヒで暮し、学的目的も達せられたので、第二年目をどうするかを兄弟で話し合い、兄はフランクフルトにあるゼンケンベルグ協会に属している有機化学研究所に赴いてフロインド教授の指導の下に生化学研究を一ケ年行って帰朝する計画をたて、私は日本を出るときから目標としていたスイスのチューリヒ大学のウェルナー教授の研究室に於て錯塩化学の研究に従事する方針を取った。
 何故チューリヒ行きをライプチヒの後に廻したかの事情は、他にも屡々書いたり話したりして記事になっているから詳しく語ることは避けるが、要するに私が日本を出てチューリヒに直行した時点に於てウェルナー教授はドイツ大学から招かれていて、或はチューリヒをやめるのではないかとの噂が専らであったため、チューリヒには三日滞在しただけでベルリンに赴き兄と合流したわけである。
 その後ウェルナーはスイス政府の引留策によって故国に止まる決心をした、という情報を私は既にライプチヒ滞在中聴いていた。このためハンチ教授が、今一年ライプチヒに止まればドクトルの学位を授けると云って引留められたのを辞して、チューリヒ行きに踏み切ったのである。

 さて一ケ年住みなれたライプチヒに別れを告げて私がチューリヒに移ったのは一九一一年の七月であったが、勿論新学期は十月に開始せられるので、それまではまだ新しい研究を始めるわけにはゆかないので、ライプチヒでの研究結果をドイツ語に書き、これを丁度チューリヒに避暑滞在中のハンチ教授に見て貰い、文章のまずい處を直して貰いなどして、この論文は私とハンチ教授との連名でドイツ無機化学雑誌に掲載せられることになった。
 また一方、ウェルナー教授の許可を得て毎日、大学図書館に通って錯塩に関する文献の勉強に時を費した。

     その五   忠府物語

 チューリヒはスイス第一の都市ではあるがその首府ではない。首府はベルンである。当時チューリヒの人工は二十萬に達していなかったが、それでもスイス第一の繁華を誇っていたのである。随ってスイスとは如何に小さな一国であるかがわかるであろう。
 当時(一九一一)チューリヒにいた留学生は私と薬学の朝比奈泰彦君、大阪医大の大串菊太郎君(解剖学)、の三人だけでこの三人はチューリヒの丘陵上のオーバーストラーセの新築の一下宿に陣取っていた。

 チューリヒの街は、細長いチューリヒ湖の一端にあって、オーバーストラーセという丘上の主として住宅街と、下町とに分れ、繁華な商業区域や工業大学、チューリヒ大学、その他の中学校や小学校等は下町にあった。

 チューリヒはユングフラウとかマッターホルンとかの本格的なアルプスにはやや遠いから、それら白峯を望むことは出来ないが、グラールスというあまり高くない連峯が南方に望まれる。冬など轟音を発して瀑布のように落ちる大なだれを遠く望見したことがある。

 チューリヒには当時在留邦人が非常に尠かったので、欧州の外の都市ではあり得ないようなことに出喰わした事がたまたま三度もあった。その二度まで、仲介をするのが銀行であることも不思議なことである。

 私は昼食をその頃毎日大学に近いあるパンションに食べに行くことにしていた。このパンションは時たまわれわれの友人が来訪して来た折、ホテル代りにこの家に泊らせることとしていた。誠実な老夫妻とその家族が経営していて安価で清潔であった。
 毎昼、昼食にも十五六人の常連が集るその内に、チューリヒ銀行のマイヤー氏もいた。この人は行員としても相当の位置の人らしく年配も態度も風采も紳士であった。
 私はこの銀行に金をあずけていたので昼食の場合ばかりでなく、銀行でも度々彼と顔を合せていた。大学の新学期の始まる前の九月のある日、銀行に行ったらマイヤー氏が窓口に出て来て、ヘヤ・シバタ、あなたに手紙が来ている、といって一封書を渡された。
 銀行で第三者からの手紙とは不思議と同氏に聞いて見たら、実は横浜の人で当地に滞在中の一アメリカ老婦人から誰か日本人を紹介して呉れ、と頼まれたので、貴君を指名したとの事、兎に角開封して見て呉れというので封を切って内容を見ると、一日茶を飲みに来るようにとの招待であった。
 マイヤー氏の顔もあるので受けることにして、指定の日の指定の時間に尋ねて行った。それはわれわれが住んでいたオーバーストラーセより更に高い丘の林間勝地、ドルダーにあるホテルドルダーである。このホテルはよく外国人の避暑客が泊る簡素なホテルである。
 ここで手紙の主に逢って見ると六十を越したと思われるアメリカ老婦人で、貿易商のご亭主と共に長年横浜に住んでいるが、日本の多湿高温の夏にはとても自分の健康が堪えられないので、毎年スイスで七八九の三ケ月を過すことにしている。ところで今年は一人の日本女中をつれて来たが、とても淋しがってホームシックを起しているので日本の方をお茶に招待し、日本語で話して貰うのが私のお願である、という訳であった。
 会って見るとこの女中というのは五十前後の歳格好で、その頃東京のどこででも見られるような田舎出の女で、化学の留学生とは何の話の種もない。私と主人の老婦人との会話を只傍で聞いているだけで、二三挨拶的の日本語会話を交わしただけ、私もやがて辞去したためこの女中さん大失望であったことであろう。

 もう一つも銀行のマイヤー氏から渡された手紙で、これはチューリヒの近郊バーデンに住むスイス人からの招待であった。文面は自分は日本に一度行ったが、萬事日本が気に入っていつも思い出している。スイスには日本人在留者が尠いので、銀行のマイヤー氏に頼んで、若し銀行に来る日本人があったら紹介して貰い、その人といろいろ日本について話したい。就ては是非一度バーデンのこれこれの番地の私の家へ尋ねて来て呉れ、というのである。
 次の日曜日にバーデンに出掛けて見た。ここは古い町でそこにある修道院は歴史的に有名である。この町は小さな町なので指定の番地はすぐわかったが、なんとこれは雑貨屋で相当の資産家であるらしい。さて、出て来た主人はまだ四十には達しない比較的若い人で私の訪問を大に喜び、妻君と一緒に茶菓で大に歓待し、日本旅行の楽しかったこと、日本の自然の美しいことなどを語った。
 一時間程の後私が辞去の腰を上げると、バーデンを案内するといって町を一廻りし、電車の停留場まで送って呉れた。この交際は只一度切りのものであった。

 第三番目の出来事は銀行のマイヤーさんには関係がなく、私が一人の私設領事の役目をつとめることになったのである。当時スイスには日本の公使館も領事館もなく、凡て外交関係はオーストリアのウィーン駐在の全権公使の兼任でその管轄下にあった。従て私の留学費などは文部省からウィーンの公使館を経由して送られて来る。
 それに朝比奈君は文部省留学生でなく、大串君は大阪府立医大の人であり、私がチューリヒに於て日本政府と一縷のつながりをもつ唯一人であったから、次に記すようなことをウィーンの日本公使館から頼まれた次第である。

 私がチューリヒに来た次の年即ち一九一二年の二、三月頃かと記憶するが、あるときウィーンの公使館から書状が届いた。開封して見るとこうゆうことが記してある。

 チューリヒのこれこれのパンションに、元東京駐在のポルトガル公使フライタス氏の夫人がその子息及び日本の一女性と住んでいる。フライタス夫妻は夫婦関係は切れていないが既に何年か別居しており、フ氏は目下リスボンに帰り、夫人がスイスで生活している次第である。
 處でこの日本人女中は十二三才の頃からフライタス家に小間使として住み込み、夫人がスイスに別居するときもついて来て既に七、八年になるので望郷の念やみ難く、二三年前から是非日本に帰らせて呉れと夫人に懇願するが一向にこれが実現しない。
 そのわけは夫人の言い分によると、この小間使を雇ったのはフライタス氏で、随って帰りの旅費を払うのは同氏の義務であると主張する。またフライタス氏の言い分は、この女中は既に夫婦別居以来ずっと夫人が使っているのであるから、当然夫人が金を出して帰らせるべきであると主張する。
 こんな不仲の夫婦の責任のなすり合の犠牲になっているこの女中も、たまり兼ねて自分で手紙を書いてオーストリアの日本公使館に訴えたといういきさつを記した文書で、これに、この女中の訴えの手紙も添えてあり、公使館としては私に一度フライタス夫人の住居を訪問して実状を見て来て、ウィーンに報告して呉れという、全く領事的の仕事の依頼である。当時チューリヒで手がかりのつく日本人としては私一人故、宜敷頼むというのである。
 そして女中の訴えの手紙を見ると、彼女は全く無教育で恐らく小学校教育も完全には受けていないらしく、文字はいわゆるみみずののたくり流で読むのも容易ではない。要するに、自分は神奈川県のある田舎出(どこだか忘れたが)で、若い時からフライタスの奥さまについていてスイスにまで来たが、今は国に帰りたい一心である。ところが旅費を出して呉れる人はいない。何とかして私を日本に送り帰してください、という意味は何とかわかって誠に哀れな話である。

 次の日曜に私はくだんのパンションにフライタス夫人を訪ねて見た。このパンションは中々高級のもので、内部の調度なども立派でサロンも堂々たるものであった。幸い夫人、子息、(高校生十六、七才位)、並びに問題の女中と皆會うことができた。

 フライタス夫人は年の頃五十才前後であろうか、スラリと背の高い貴婦人風の風采であったが傲慢な風は見えなかった。子息はチューリヒの工業大学を志望しているとの事で、私がチューリヒ大学の研究室に居るということで大変尊敬して呉れ、その後大学へ尋ねて来たこともある。
 さて、ご本尊の日本女中だが、誠に顔色の悪い見たてのない女性で、恐らく貧家の出ではないかと想像された。いざ自分の考えを私に云わんとしても、日本語を既に大分忘れていて思うことがとぎれとぎれにしか云えず、片言のドイツ語をまぜて、要するに手紙にあったことを漸く述べ、オーストリアにある日本公使館に、自分を日本に送り帰すよう云って呉れというのである。
 私は学生で只公使館から頼まれて実際を見に来ただけで、お前さんの希望は取次ぐがそれ以上のことはできない。しかし絶望はしないで、も少し辛抱強く待つがよい、と慰めて別れた。私は以上の実見談を詳しく書き、ウィーンの公使館に報告した。勿論みみず流の彼女の訴状はつけて返した。

 私はこの夏にはチューリヒでの研究が完成に近づいたので、フランスへ転学する目算を立て、その心づもりをしていたある日のこと、オーバーストラーセの下宿の私の部屋の扉を叩く人があった。扉を開けて見るとズングリした半白の立派な日本人が立っていた。そして渡された名刺を見ると、澳国駐箚特命全権公使、秋月左都夫とあるので私は実にびっくりした。
 早速室内に招じて挨拶すると、公使は私の先頃の報告について感謝し、哀れな日本女中を官費で帰らすわけには行かないが、日本の外務省に通報してフライタスに金を出させるよう忠告することを取計らっているとの話をされ、私の努力に対して今夕自分が泊っている湖畔のホテル・バウルオーラックで夕食を共にしたい、とのご招待を受けた。

 バウルオーラックというのはチューリヒでは一流の高級ホテルで、私はそれまで中へ入ったことなどはなかったが、公使の招待で定めの時間にその食堂に入ると公使が待って居られた。一つだけ覚えているのは名物の川鱒(フォレルレ)をご馳走しようと云われ、これを食べたことだ。
 食後公使は湖畔を散歩しよう、と私を伴って、いろいろ話しながら湖に沿って町にいで、夜の席亭〔よせ〕のようなものに入り、コーヒーを飲みながら何か演芸を見たが、それが何であったかは全く忘却してしまった。これが済んでから公使に厚く礼を述べて別れた。
 一寸話が外れるが、ライプチヒで別れた兄は其後一ケ年近くフランクフルトのゼンケンベルグ協会所属の有機化学研究所にいたが、一九一二年四月に帰朝することとなり、私はなお一年余り滞欧するので兄とどこかで逢うことを手紙で相談し、これをパリときめた。そしてパリの知人の膽いりでカルチエ・ラタンのあるパンションで逢い、一緒に一週間程パリ見物をして別れるということにした。
 予定通りパリで兄と逢い、見物の後兄はシベリア鉄道で日本に向って欧州をあとにし、私はチューリヒに戻った。

 秋月公使が私を訪ねられたのは私がパリから戻った後と記憶する。

 さてフライタス事件には後日談がある。私は一九一二年七月にチューリヒに別を告げてパリに移り、この年の十月からソルボンヌのパリ大理学部化学教室のジョルジ・ユルバン教授に就いたが、この年の天長節に在パリ日本公使館の祝賀会に招かれた。そこにはいろいろの人が集っていたが、その内にスペイン(ポルトガル兼任)公使成田(?)氏も居られた。
 私は話のついでにリスボンにいるフライタス氏をご存じかと聞いて、例の日本女中送還事件に触れて見た。處が成田公使はよく知っておられ、言下にフ氏が遂に旅費を支弁することになったこと、彼女も近く悲願の帰郷が実現するだろう、と語られた。この話はそれ以上私のタッチするところでもないので果してその後どうなったかを知らない。


 私は一九一二年夏にチューリヒからパリに引越し、一九一三年十月末に日本に帰るまでソルボンヌのジョルジ・ユルバン教授の教室で、いろいろのコバルト錯塩水溶液の吸収スペクトルの研究を遂行した。これが帰朝後も東大で続けたライフワークとなり、日本に分光化学というものを輸入することとなった。
 しかし、私としてもっと大きな精神的収獲は羅甸文化というものの吸収であったと思う。例えばソルボンヌのユルバン教室の空気、これは巨匠ユルバンが無作為にその人格からにじみ出させた雰囲気でもあったが、勿論フランス科学の伝統の然らしむる處でもあった。
 私がライプチヒやチューリヒで化学研究を遂行しながらそれらの大学研究室で浸って来たものはチュートン文化で、学問はかくあるべきであるというパターンがきまっていてこれを尊重し、学者たちは学問街道とでも云うべき、一段高いと自分で信ずる通路を胸を張って得意げに歩いている。
 二ケ年こういう空気を吸ってフランスに行ったら、吸う空気の味が全然違っていた。自由平等という味がこれで、学者だぞと自分で身を堅くしていた緊張感というものが自然にほぐれて来た。自然科学も哲学も芸術も、公園の花壇に咲き乱れる花のようにどこにでも手の届くところにあって、人の手を觸れるのをとがめないとでも云うべき様相であると感じた。
 我師ユルバンは化学の巨匠であると同時にピアニストで、また彫刻家であった。勿論それぞれの専門家から見たらいろいろ批判もあろうが、自分でそれらを楽しむ素人芸以上の手腕を持っていた。
 ソルボンヌの物理教室には、当時ランジパンやペランがいてよくユルバンの處へ出入していた。そしてこれらの先生も学生も助手も小使も、皆ムッシューでドイツ流のヘヤ・プロフェッサー、ヘヤ・ゲハイムラートなどの呼び方は絶対にない。それぞれ自分の本分を自覚して働いている人間同志なのである。


 以上は今から六十年程前の古い思い出咄である。たまたま病気をして病院生活の退屈さに筆を執り始め、退院して静養中も筆を執りつづけてここまで書いたが、大体最初もくろんだ内容は出し盡したようである。これを以て終結としよう。
                                                                 
                                                             昭和四十五年十月十八日



     あとがき
                                                 柴田南雄

 『留学時代私談』は、父柴田雄次(1882〜1980)が88才の1970(昭和45)年に書き記した文章である。父はこの年8月26日、前立腺肥大のため国立第二病院に入院したが、入院中にB5版罫なしノートに「病院雑筆」と題する感想文をボールペンを用い独特の崩し字で書き起している。
 その第8ページ目から「留学時代私談」がはじまっており、短歌や漢詩の数ページを挟んで40ページにわたっている。その間、父は10月3日に退院したが、家に帰ってからも「その二」以下を書き続け、10月18日に閣筆している。
 父はその直後、より詳細な「留学物語」を別のノートに執筆しはじめ、これは第5冊の4ページ目で中断しているが、内容はほぼ「私談」と同様で、ただ分量としては三、四倍にふくらんでいる。
 この機会に、専門論文以外の父の遺稿について一言させていただくと、まず、昭和17年元旦から死の二日前、すなわち昭和55年1月26日までの日記が完全に揃っており、手帖、博文館の当用日記、ノートとりまぜ106冊にぎっしり書き込まれている。
 それ以前の日記帖は、明治41年と明治43、44年の2冊が、東大の化学教室に置き忘れられていたために偶然に残った以外、大久保(新宿区百人町二丁目)の家と共に戦災で失われた。
 短歌と漢詩は『歌稿詩稿』(昭和44年、私家版僅少部刊行)のあと「續歌稿詩稿」が原稿のまま残されている。
 このほか、講演、祝辞、式辞、告辞が4冊のファイルに、定期刊行物に印刷された随筆、評論の切抜きが1冊のファイル、さらにこれとほぼ同種の、ファイル1冊分のバラ原稿がある。
 「留学時代私談」の印刷刊行が成ったのはひとえに酒井勝郎先生の御好意の賜で、記して厚く御礼申上げる。先生が判読して下さった文字だけでも、かなりの数に上る。
 なお、句読点や送りがなを補い、かな使いの誤用を改めるなど、必要最小限の手を加えた。
                                                            (1981年9月)


                            『留学時代私談』   柴田雄次遺稿
                             出版者・         柴田 南雄
                             印刷所・         酒井九ポ堂
                             発 行・  昭和五七年四月二八日

                             限定百部         (非売品)

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