ver1.00
The Theater 外伝3 「H級戦艦のすべて!!」
作 ベイオウルフ
第二次大戦において、数奇な運命をたどった艦というのは多々あるのだが。
その中でも、ドイツ第三帝国の誇るH級戦艦のたどった道というのは特筆の値する物であったと言えるだろう。
その一生については数多くの作品が出版されているが、本書ではH級戦艦ハード的な部分を中心に解説してみたいと思う。
(U書房「○」編集部より)
H級戦艦を語るには、まずZ計画について述べなくてはいけないだろう。
ベルサイユ条約破棄後、イギリスとの間に結ばれた英独海軍協定によって,
ドイツ第三帝国はイギリスの35%までの艦艇を保有することが出来た。
しかし、ドイツは将来イギリスと対決を予測しており、
それまでにイギリスに対抗できるだけの海軍を建設することに決めたのである。
そのとき、作るべき将来の海軍像として二つの案があった。
ひとつは、潜水艦部隊の指揮官であったカール・デーニッツのUボートを中心とした通商破壊戦専門の艦隊案。
そしてもうひとつは、ドイツ海軍総司令官エーリッヒ・レーダーの、
水上艦艇を中心としイギリス海軍ともバランスがとれある程度までなら対抗することもできる大艦隊案である。
ヒトラーが選んだのは後者であった。
ヒトラーはイギリスとは1946年までは戦争にならないとしており、
それまでにイギリスに対抗出来る海軍の建設を命じたのだ。
こうして生まれた海軍拡張計画がZ計画なのである。
Z計画では巡洋艦以上の艦艇だけでも100隻近い艦が建造される予定だったが、
その中でもZ計画の象徴として設計されたのがH級戦艦である。
H級戦艦はH,J,K,L,M,N(Iは数字の1と混同されやすいので使わない習慣だった)の6隻が建造される計画だった。
しかし、運命は過酷であった。
1939年9月1日、ドイツ第三帝国はポーランドに進攻し第2次大戦が勃発、
1946年を待たずしてドイツはイギリスとの戦争に入ってしまったのだ。
これによりZ計画の艦艇は次々に建造中止となっていったのである。
H級戦艦も開戦時、建造が始まっていた「H」と「J」を除き建造を中止され、
「J」も「H」を早期建造するために解体されてしまったのである。
そして残ったのは「H」だけになってしまっだのだ。
それではいよいよH級戦艦本体について説明しよう。
起工時の設計では、基準排水量55、453 t 全長277.8m 全幅37.2m
速力 30 kt 主砲 47口径40.6cm連装砲4基 副砲 55口径15cm連装砲6基
高角砲 65口径10.5cm連装高角砲8基 37mm連装対空機関砲8基 雷装
53.3cm魚雷6門 と言うものであった。
基本的にはビスマルク級戦艦の拡大改良型で、ビスマルク級でもそうだったが、
搭載している砲に比べると船体が大きく、防御区画が非常に広いことも特徴的である。
なおこの艦に採用されている防御方式はドイツ特有の防御方式で全体防御や完全防御などと呼ばれている。
日本や米国、英国の戦艦はいわゆる集中防御と言って、
防御区画を重要区画のみに区切ることで装甲を厚くする方式を採用している。
この方式は重要区画は安全度が高い半面、無防御区画が損害を受けやすく、浸水しやすくなってしまうことが弱点といえる。
それに対し、全体防御方式はその名の通り、船体の船体に装甲を施す方式である。
これにより、集中防御に比べ装甲厚は薄くなるが損害を受け難くなるのだ。
しかし、弾薬庫に対する命中などで爆沈する可能性があるのが弱点といえる。
ドイツはその弱点を被弾時のすばやい注水などのダメージコントロールにより克服する方針をとっているのである。
実際の装甲厚は、舷側300mm、甲板120mm、主砲385mmというものであった。
(ちなみに、大和級は舷側410mm、甲板200mm、主砲650mm)
H級戦艦ではビスマルク級にも使われた「ヴォータン」装甲板をふんだんに使用しており、
その防御力は実際の装甲厚以上だと考えられる。
また、前項の防御方式による浸水のしにくさや、船体が大きいことによる浮力の大きさなどを合わせて考えると、
浮沈性ということでは大和級以上であると言えるだろう。
次に搭載する機関についてであるが、シャルンホルスト級やビスマルク級と同じ3軸推進艦で、
ビスマルク級では信頼性の面で断念していたディーゼル機関をH級では採用している。
このH級戦艦用に作られたMZ65/95型ディーゼル機関は一機あたり13、750HPもの出力を誇る優秀な機関である。
H級はこれを1軸あたり4基づつ搭載し、3軸の合計は165、000HPとなり
最大速力30ktの高速と19ktで19、200海里もの長大な航続距離を両立させているのである。
新設計の主砲は47口径40.6cmと1939年時の列強の戦艦の中でもっとも巨大でもっとも長砲身の砲であった。
しかも、ドイツの火砲製造技術は極めて優秀であり、そのことを加味すれば
後のアメリカの戦艦アイオワ級に搭載された50口径40.6cm砲に匹敵する威力があったと考えられる。
また、発射速度も毎分2発とかなりの速度での発射が可能であり、
単位時間あたりの投弾量は恐るべきレベルに達しているのである。
興味深い点は主砲の限界仰角が30度であることである。
これは列強の戦艦に比べると明らかに劣る物で、そのために最大射程も36、800mmと、
40cmクラスの砲としては短いものとなっているが、(物理法則を考えた場合、45度の角度がもっとも射程が長くなる)
このことはドイツ人が自身の戦艦の防御力に自信を持っており、
中距離から近距離での砲戦に自信があることを示しているのである。
船体の大きさの割に対空火砲が少ないが、
これは計画時には対空脅威についてはそれほど考えていられなかったためである。
実際、起工した後に高角砲や対空機関砲を増強する計画が存在していた。
また、魚雷発射管を装備しているのは興味深いところである。
それまでのドイツ戦艦(ビスマルクやシャルンホルスト)にも魚雷発射管は搭載されていたが、
これほどの巨艦にも装備されるのは驚きである。
ドイツ海軍が戦艦にも通商破壊戦を行わせようとしていることはあきらかと言えよう。
ちなみにビスマルク級までは発射管は甲板上に搭載されていたが、
強度や誘爆の危険性などから水中発射管に変更されている。
H級戦艦の建造は以外と早くから行われており、詳細について諸説あるが(秘密ドックでの建造と言うこともあり詳しい資料が
あまり残っていない)1937年から1938年にかけての間に起工されたと考えられる。
「H」と「J」がまず起工され、ついで「K」と「L」が起工されたが、
1939年、ドイツ軍のポーランド進攻により第2次世界大戦が勃発し、完成に手間のかかる大型艦の建造は一時的に停止され、
戦闘の激化によって次々に建造の中止や解体に追い込まれていったのである。
その中で、「H」だけはZ計画の象徴として他艦の資材が転用され建造が続けられたのである。
ここから、「H」はより強力な艦を目指して幾多の改良が加えられていったのである。
「H」に加えられた改装は大きく分けて二つの時期に分かれていた、ひとつはH級後継艦のものである。
ドイツではH級のあとにも戦艦の設計を続けており、H級も原形として年々計画を拡大していたのであった。
1941年設計の物はH41級、1942年設計の物はH42級と呼ばれた。
前述の理由で後継艦の建造はしばらくは無理になったので、
ドイツ海軍はH41級の設計を「H」に反映することにしたのであった。(もうひとつについては後述する)
まず、H41級用に制作されていた47口径42cm砲に主砲の変更が行われた。
この事は、H級戦艦が単純な性能だけでなく冗長性にも優れていたことを示す良い例であろう。
主砲の変更に伴い、対40cm防御だった船体を対42cm防御にするために
(戦艦とは基本的に自分自身の砲で自分自身を撃っても耐えられる装甲を持つこととされる。)
各部の装甲厚に追加が行われるはずだったが、各部にまともに装甲を施した場合、
排水量は優に80、000 t を越えてしまうであろうことが計算された。
よってドイツ海軍艦政本部は、Hの元設計で不足していたと考えられる甲板装甲についてだけ追加を加えたのである、
これにより甲板装甲は120mmから200mmになり大和級に匹敵する甲板装甲を持つことになったのである。
また、1941年の<ライン演習>において戦艦ビスマルクが、ソードフィッシュ雷撃機のたった一本の魚雷により
舵を損傷し行動の自由を失った事件を重く見てH級に改良を施している。
それまでの戦艦は3軸のスクリューを3つとも横一列に並べていたが、これらを山なり配置にすることによって、
一本の魚雷ですべての推進器が損傷を受ける危険性を少なくしたのである。
加えて、主砲の変更と装甲の強化等で生じた重量の増加に対し搭載機関の強化も行っている。
さすがに新規の機関に変えることはできなかったが、細かい部品の改良や排気量の増大により
一機あたり13、750HPから15、500HPへと強化されている、これにより総出力は186、000HPとなり
重量の増加とほぼ相殺され依然30ktの速力を保っていた。
ちなみに機関部の改造はかなり迅速(1941年半ばに始められて42年の初頭には終っている)に行われた、
基本的に機関部の改造は時間と手間がかかる物である、なにせ一回船体をばらさなければいけないからだ。
しかし、ドイツ海軍艦政本部は艦尾を別パーツ化して作り船体主要部分にはめ込むという設計をとっていたために
機関部に対する改造を比較的容易に行えたわけである。
これらの改造は起工より1942年までに行われた物である。
ここでH級戦艦に転機が訪れた。
ヒトラーの海軍への不信、ドイツ海軍の護衛艦不足等により「H」の運用に不安を覚えた
ドイツ第三帝国はなんと大日本帝国に「H」の売却を持ち掛けたのである。
艦艇不足に悩んでいた日本海軍は即座に了承し、「H」の完成後いくつかの作戦に
協力するという条件で合意が行われた。
そして、設計図の開示が行われ日本の弾薬事情等に合わせるための改造計画が
大日本海軍艦政本部から出されキール秘密ドッグで改造が行われたのである。
主砲はさすがに変えることは諦められ呉に42cm砲弾の製造工場が作られた。
副砲と高角砲はすべて撤去され、日本より輸送した65口径10cm連装高角砲が代わりに搭載された。
副砲を撤去したスペースにも高角砲を載せたため、当初の連装8基16門から連装40基80門(!)となっている、
どうやら秋月級に搭載するはずだった分を流用したようである(そうでなければこれほど多くの砲を集められたわけがわからない)
さらに25mm機関砲、13mm機銃については双方とも100基以上はあったようで近接防御力もかなりの物であったと考えられる。
また、魚雷発射管はなんと日本製61cm魚雷発射管でもちろん酸素魚雷を発射可能なものである。
その他にも、艦内の艤装などが日本人用に変えられることなどが行われた。
記録にはこれらの作業が終わり進水したのは1942年10月12日であると残っている。
完成した「H」は基準排水量68、320 t となり「大和」を上回る艦となったのである。
当初、H級一番艦仮称「H」は進水した暁には「フリードリヒ・デア・グロッセ」と名づけられるはずであったが、
その数奇な運命はそれを許さなかった。
以後、日本海軍は「H」を「敷島」と名づけて運用を開始する。
改装された「H」の実力はあきらかに大和級を上回る物で、それは運用実績からいっても間違いないだろう。
太平洋での「H」の活躍はドイツの艦艇設計能力が並々ではないことを示しているのである。
以後ドイツでは設計こそ行われるものの新たなる戦艦は生まれ出でることはなかった。
「H」はドイツ最後で最強の戦艦でありながら幻の戦艦となったのである。
Fin
あとがき
こんにちは、ベイオウルフです。
またもや我ながら濃い作品が出来上がってしまいました(笑)。
なんか一人だけ浮いているような気が・・・・。(爆)
ま、冗談はさておき、今回の作品はH級出現の日から暖めていた物で、
ずいぶんと時間はかかったわりには、細部はちょっといいかげんに作ってしまいました。
技術的な所はほとんどはったりですので、まぁファンタジーだと思って(笑)楽しんで下さい。
では、最後になりますが艦長様50000HITおめでとうございます。
さらなるご活躍を期待しています。
by ベイオウルフ
艦長からのお礼の砲撃。
ベイオウルフさんから「The Theater」外伝第三弾を頂きました!
ありがとうございます!
本編で私がそれとなく放棄した(笑)H級建造に関する細かい経緯を書いていただきました。
ハッキリ言って私はここまで考えてませんでした(爆)
思いつくままに性能を決めていったから(笑)
んが、高角砲40基装備というのは外せないところですね(爆)
さて、今回の戦果(笑)により、ベイオウルフさんは
海軍大尉
に昇進でーす!
これからもがんばってください!
メールはこちら!