C.T.スタッド <神のクリケット選手>  C.T.スタッドは、格式の高い裕福なイギリスの家庭出身で、有名なクリケット選手 であり、「ケンブリッジの七人」と呼ばれた人々の一人です。一時、中国、そしてインド の宣教師として奉仕した後、彼は中央アフリカに飛び込み、そこで、中核アフリカ宣教団 (現在の世界福音宣教十字軍)を組織した。彼はそこで、普通なら引退する年齢を遙かに 過ぎても、家族や愛する人々から離れて、最も原始的な環境の中で、キャンプ生活をしな がら奉仕した。彼の物語は、N.P.グラッブの「C.T.スタッド─クリケット選手で ある開拓者─」に記されている。以下の文章は、そこからの引用です。  最初に、スタッド自身の言葉を引用しよう:「私は、宗教というものは、日曜日だけの ものであって、ちょうど、礼拝に着て行く服のように、月曜日には脱ぎ捨てるものである と考えていたものであった。私たち少年は、規則的に、教会に連れて行かれた;ある種の 宗教を持ってはいたが、それは、大したものではなかった。それは、歯の痛みのようなも のであった。私たちは、日曜日がやってくるのが残念だったし、月曜日の朝になるとうれ しかった。安息日は、一週間の中で一番うっとうしい一日であった。それは、宗教の目的 を誤って理解していたからであった。そして、ある日突然、好運にも、本物の試合中のク リスチャンに出会った。それは、私自身の父であった(父は、広大な土地を所有しており、 競馬に夢中の生活をしていたが、D.L.ムーディの働きを通して、その直前に、著しい 回心を経験していた。)しかし、それは、人をぞっとさせただけであった。私たちの家族 の全員が、回心するまでは、惨めで単調な生活をしていた。それからしばらくは、私は、 ドアが開くのを見ると、寝たふりをしたり、昼間、父がやって来るのを見かけると、家の 反対側へそっと逃げたものであった。」  グラッブは、さらに話を進める:「少年たちは、夏休みの間、テッドワースの家にいた。 そして、たくさんのクリケットの試合が計画された。いつものように、彼等の父は、日曜 日の礼拝に話をする人々を週末になると家に招いて滞在させた。ある週末、二人の人がや って来た。二人の中ひとりは、少年たちに人気があった;もうひとりのW某氏は、人気が なかった。それは、少年たちが彼を“腰抜け”だと考えていたからです。日曜日の朝、少 年たちは、いたずらを計画した。少年たちは、自分たちや父と一緒に馬に乗って出掛けよ うと彼を誘った;というのは、彼が本当は、乗馬がへたくそなのに、馬に乗ることができ ると言っていることを確かめたかったからです。三人の少年は、後ろからついていくと、 突然、前の二人を追い越して、風のように馬を走らせた;もちろん、誰にも馬を押さえる ことはできなかった─W某氏にとっては非常に困ったことであった。しかし、W某氏は、 見た目よりも勇気があり、馬から落ちなかった。三人は、こんなことを数回繰り返した。 三人の父は、彼等をとがめることができなかった。というのは、彼自身が、大笑いしてい たからです。」  「しかし、その午後、W某氏は復讐に出た。彼は、三人の少年たちそれぞれと、個人的 に語り、彼等がお互いに知らない中に、キリストに自分自身を明け渡すように導いた。」  スタッドは、自分自身の言葉で、何が起きたかをこう語る:「私がクリケットをしに外 へ行こうとしていたとき、彼は何気なく私を捕まえ、聞いた。『君はクリスチャンかい?』 私は、『僕は、あなたが言うようなクリスチャンではありません。小さいときからずっと イエス・キリストを信じてきたし、もちろん、教会の中でも信じているけど。』と答えた。 私は、最後にしゃれた答えをして、彼をからかってやろうとした:しかし、彼は、ワック スのようにしっかりとくっついて離れず、言った。『見てごらん。神は、実に、そのひと り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅 びることなく、永遠のいのちを持つためである。君は、キリストが死なれたことを信じる かい?』『はい』『君は彼が君のために死なれたことを信じるかい?』『はい』『じゃあ、 残りの半分の【永遠のいのちを持つためである】という部分も信じるかい?』『いいえ』 と私は言った。『僕はそれは信じない』すると彼は言った。『さて、君の言ったことは、 神様のおっしゃることに反するとは思わないかい。神様か、君か、どちらかが真理ではな いことを言っている。というのは、君の言うことと神様の言葉とは、互いに相反するから だ。どっちが真理だろうか?君は神様が嘘をつくと思うかね?』『いいえ。』『それじゃ あ、半分は信じて、残りの半分を信じないと言っている君は矛盾していないかい?』『い いえ。いつも矛盾しているわけではないと思う。』と私は言った。『今、矛盾しているの ではないの?』と彼は言った。私は追いつめられた;そして、私は考えた。もし私がこの 部屋を矛盾したまま出ていったら、もう自尊心を失ってしまうだろう。そこで私は言った。 『はい。僕は矛盾しています。』『よろしい。永遠のいのちは、贈り物だということが分 かるかい?もし、だれかが、君にプレゼントをくれたら、君はどうする?』『僕はそれを もらって、ありがとうと言います。』彼は言った。『この贈り物をくださった神様にあり がとうと言おうか?』そこで、私はひざまづいて神様に、『ありがとう』と言った。する と、その時、そこで、喜びと平安が、私の心にやって来た。私は、これが、『新生する』 ということなのだと知った。そして、それまで、私にとってはつまらないものであった聖 書が、私のすべてとなった。」  グラッブは、その物語をこのように締めくくっている:「C.T.スタッドは、その時、兄 弟たちには、なにもいわなかったが、イートンに帰ってから、父に手紙を書いて語った。 それから数日後、イートンの彼らの部屋で朝食を食べているとき、三人の兄弟は、父から 三人の連名で宛てられた手紙を受け取った。その中で、父はよい知らせを聞いて喜んでい ると書いていた。彼らは手紙を回し読みしながら、三人が同じ日に決心をしたことを知っ て本当に驚いた。試合では、よいところが全くない、いわゆる『弱虫』が、キリストのた めに人をすなどるという最高の試合のエキスパートであり、一日のうちに、三匹の内気な 魚──全員、イートン校のイレブンの一員であった──を釣り上げたのだ。」