F.B.マイヤー <世界的牧師>  ある時、熱心な若い牧師のグループから、昔の信仰の偉人や、指導的な聖書教師で、そ の著作が、徹底して、正統的で、健全で、霊的であって、自分たちにも役に立つと思われ る人物を何人か推薦してほしいと頼まれた。そのリストのトップに、私は、F.B.マイ ヤーとA.T.ピアソンを挙げたと思う。  私は、マイヤーの伝記を二冊持っている。一冊は、彼の死後(1929年)、親友であったW. Y.フラートンによって書かれたものであり、もう一冊は、それよりも前に、M.ジェニ ー・ストリートによって書かれたもので、より彼の生涯の出来事の時間的順序が正確であ るといわれている。両者ともに、読者に豊かな利益を与える本であるが、彼の若かりし頃 の記録と、回心の記録を、主に、ストリートの美しい記述から引用しよう。  しかし、まず、マイヤーの素晴らしい経歴の特筆すべき特徴を挙げよう。彼の著作が有 用であると前述したのであるから、まず、それらについて述べよう。彼の生涯が及ぼした 他の影響について語った後で、フラートンは、「多分、最もはっきりと分かる遺産は、彼 の書いた書物である。70冊以上の本が英語で書かれ、その多くが、他の言語に翻訳された (20冊は、スェーデン語にのみ翻訳された)。パンフレットは、優に100を超える。」  ジェニー・ストリートは、彼の死の25年以上も前に、伝記を書いたのであるが、彼の著 作について、「アメリカにおいて、それらは、英国における以上によく知られており、オ ーストラリアにおいても、非常に評判が良いと言われ、彼の著作物を所有していない家庭 はないほどであるともいわれている;すべての著作物は、ドイツ語に翻訳され、…そのほ とんどがスウェーデン語に翻訳され、スウェーデン女王陛下は、最も鑑識眼の高い読者の ひとりです。いくつかの著作は、ヒンズー語、シンハリー語、中国語、現代ギリシャ語、 その他の言語にも翻訳された…彼のある本が、シリヤ語に翻訳された最初の結果は、翻訳 者の回心であった!」  フラートンの記録によれば、マイヤーが死ぬまでに書き上げた著作物は以下の通りです; 聖書人物伝が12冊;日替わり説教集が5冊、その他のデボーショナルな本が8冊;霊的 生活についての本が12冊;聖書講解が9冊;説教集が8巻;固いエッセイ(‘私たちの うち死んだもの達はどこに居るのか’とか‘講解説教’のような読み物)が14巻。フラ ートンは、それらに加えて、「彼は、また、少なくとも35冊の小冊子を書き、それらは、 200万部を超える驚異的な発行部数となっている。」と語る。  フラートンが言うように、「彼の生涯を通して、いくつかの雑誌を編集していた」けれ ども、マイヤーは、文筆活動のみに骨を折ったわけではない。ウィクリフ教会人物辞典は、 「マイヤーは、社会運動、禁酒運動、矯正運動に従事した。政治家となり、市会議員にな った;酒場を閉鎖する運動の先頭に立った;500近い不道徳な店を閉店させることに尽力 した;刑務所から出た人々の更生に尽力した;あらゆる年齢、階層の人々の組織に影響を 及ぼし…南アフリカ、極東…合衆国、カナダ、ジャマイカ、オーストラリア、近東などの 宣教活動を指導した。」と記している。また、ストリートは、「彼がホワイトハウスでマ ッキンレー大統領と会談した」様子を伝える。  無名時代のD.L.ムーディーが英国にやってきた時、マイヤーは、ムーディーの成長に 必要な励ましと援助を与えた。そして、彼は、A.T.ピアソンと共に、ムーディーの親し い友人となり、一緒に、アメリカに有名なバイブル・カンファレンス・センターを建てた。  さて、次に、ストリートの著作から抜粋して、マイヤーの回心の物語を語ろう。 「フレッディー・マイヤーは、生まれた時から、祈られ、共に祈り、世話をされと、非常 に聖なる影響の中に育った。また、彼は、幼い頃から、その影響に応じて育った。四歳の 時、彼の両親は、年老いて罪の中を歩んでいた者たちを幼子のようにする、その恵みの確 かな印を発見して喜んだ。その恵みのしるしが、幼子の心と生活に現れた時ほど、喜びに 満ちた時はなかった。彼は、五歳になる前から、祈ることを愛し、聖書を読んでもらうこ とが好きであった。彼は、讃美歌を覚えることが好きで、幼い時から、讃美歌の一節を適 切に引用するすばらしい才能を示した。」  「彼の子どもらしい祈りは、いつも、自分の言葉で、自分の願いをはっきりと表現する ものであった。6歳の誕生日が過ぎて間もない頃、彼は、母に、神様は自分の罪を赦して くださったと確信していると語った;彼を見つめる愛に満ちたひとみは、彼が善を求める 熱心を持ち、困っている人々には情け深く、子どもらしい過ちに真剣な悔い改めすること をじっと見ていた。母は、息子が、度々、ベッドの中で讃美歌を口ずさむのを聞き、乳母 は、時々、彼がひとりで祈る姿を目撃している。母からある教えを受けた後、彼は自発的 に、夕べの祈りに、『あなたの聖霊を私のうちにお与えください』という祈りを加えた。 ある時、彼は、戸惑った表情で、『みんなが、死ぬのが恐いって言うのはどういうこと? どうして恐いの?ぼく恐くないけど。』と尋ねた。」  「日曜の朝食の後、母は、子供たちを側に集めて、聖書を読んで聞かせた。彼らが成長 すると、聖句を暗唱し、引照を見つけなければならなかった。その様にして、母の指導の 下、未来の説教者は、やがて彼の説教や講演を、非常に豊かな聖書の引用や示唆に富んだ ものにする、正確で幅の広い聖書の知識を身につけた。日曜日の午後4時30分は、子ど もたちにとって、その日のクライマックスであった。それは、母がピアノで讃美歌を演奏 し、父がバスの美しい声で、子供たちの讃美をリードする時であったからです。」  フレッディは、大きくなると、彼が筆記した礼拝のメッセージを読み上げるように、励 まされた。九歳の時、彼は、一枚の紙切れを母に渡した。そこにはこう書いてあった: 『愛するご両親様、きっと喜んでくださると思います。私は、神様が生かしてくださるな らば、牧師になりたいと思います。今、私は幸福です。それは、神様が私に新しい心を与 えてくださったからだと思います。』」  最後にいくつかのことを述べよう。これは、ストリートの文章の引用です:「ノースフ ィールドでマイヤーに初めて会ったアメリカ人の牧師が次のように語った。『見事な率直 さで、彼は、自分自身の隠された苦闘、失敗を語ったので、誰も彼を近づき難いほど崇め 奉ると言うことはなかった…彼は、知りうる罪から今自由にされることと、祝福の盈満の 絶えざる前進とを信じていた。』」  他の友人は、「彼の仕事に対する並外れた能力と、絶えざる神と共なる歩み」について語 った…「機会が訪れると、彼は個人伝道のチャンスを決して逃さなかった。ある時、彼は 風の強い雨の日に、秘書の失敗で、屋根のない馬車でドライブしなければならなくなった ことに感謝した。というのは、そのことで、新聞売りとその乗り物の御者と特別な会話を することができたからです。」  ハイ・ピッカリングは、このように断言する:「マイヤーは、15,000の説教をしたと言 われている。80歳の時、彼は300の集会で語った。81歳の誕生日は、朝と夕に説教して祝 った。」  A.L.グレッグは、「彼はこの地上では、一人の巡礼者であった。彼の真の家は天にあ った。」と言った。