ウィルフレッド・T・グレンフェル卿
<ラブラドールへの宣教師>

 40年間、ラブラドールの宣教師であり、24冊の著書を著したウィルフレッド・T・グレンフェル卿は、北洋漁場のために最初に病院船を用意し、ラブラドールのいたるところ、また、グリーンランドの海岸から離れたところにも、病院や、病院船を設立した。
 グレンフェル博士のたくさんの有名な経験の中で、氷の割れる季節に、湾を横切って医者を必要とする人の所へ行こうと、犬ぞり隊を編成した時のことです。突然、天候が変わり、氷上を外洋に向かって、流されていく、絶望的状況に陥ったことに気づいた。彼の装備は、帽子や上着まで、割れて流される氷にはい上がるときにみな失ってしまった。そのような状況で、今、生きてはいるが、すぐに死ぬことになると悟った。彼には、生きるために、一つの方法しか残されていなかった。彼は、忠実な犬たちの中から三匹を選んだ;そして、ほかの犬を後に、一匹ずつ殺し、氷点下の寒さから身を守るために、その皮を用いた。また、犬の骨を皮ひもでつないで、旗竿を作り、そこに、彼の一番必要であったシャツを縛り付けて、見出される希望を託して、それを振り続けた。凍傷にはかかったが、神の摂理の中に、救助されるまで、生き続けた。
 
 下記の一文は、私の所有している「私にとってキリストはいかなるお方か(London:Hodder & Stoughten,1926)」という自叙伝のコピーから引用したもので、蒸気船であちらこちらへ旅行した際に、ペルシャ湾において書かれた。「少年時代、私は、祖国(英国)の法律によって定められた国教会正統派の教えによって育てられた。宗教は、当然のことであり、すべての紳士教育の一部であった。宗教は、私のうちに、他の健康な若者達同様、意識的な個人的反応を生み出さなかった。私の思い出すことの出来る唯一の印象は、礼拝さえなければ、当然、遊ぶために使ったであろう一週間のうちの一日を、無駄に(礼拝のために)『浪費している』事が、惜しかったということです。」
 「平均以上に厳しい頑丈な体質であったので、死んだらどうなるだろうかなどと、一瞬たりとも心配したことがなかった。私の経験から判断する限り、宗教はたいてい死と関わりがあるのだが、私は、死に向かっているという概念を持っていなかった。家庭において、私たちは、毎朝祈る習慣があったが、それも、喜んですると言うより我慢して行われていた。夏になると、私たちの両親は、大概スイスなど、海外へ出かけ、そういうときには、朝の祈りはなかった。そして、その日は、いつもより自由で、長く感じられた。」
 「私は、知的な疑いで悩むことはなかった。私のすぐ下の弟は、大変虚弱で、私は、異常なほど、彼に対して献身的であった・・・しかし、彼が、次第に弱って死にそうになったとき、私は、毎日のように、彼の寝室に別れを告げに行った。私が考えたように、みんなは、彼が死ぬまで、私に、彼は絶対に大丈夫だと安心させた。私はそれで満足した・・・しかし、私は、彼が死んだとき、それほど悲しくなかったということに、少し驚き、また、みんなが言うように、彼はどこか、より幸せなホームに行ってしまったのだという確信を私が持っている事に、驚いたことを覚えている・・・。」
 私が、パブリック・スクール時代、人としてのキリストは私の意識の中にほとんど意味を持たなかった。私たちの学校は、制度として、国教会の信仰を宣言していた・・・14歳の時、堅信礼を受けることは、当然のことであった。堅信礼を受けた後に、人々は、礼拝が終わって、子供達が帰された後も、教会に留まることが許可されるのであった。私は、はっきりと覚えているのだが、初めて、聖餐式にあずかるために残ったとき、牧師が、『ふさわしくないまま聖餐にあずかる者は、そのことが自分をさばくことになる』と語るのを聞いて、少し怖かった。人は、大抵、学生たちは、その学校の信仰をそのまま受け入れていると考えていた。しかし、私は、ある学生達はそうではないと確信している。しかし、当時、そのことは、私がどのような場所に立っているのかについて注意を喚起するには、十分ではなかった。」
 その後:「私の仕事を怠ったり、私の患者をおろそかにすることなく、清潔なスポーツに上達し、また、それにふさわしいからだを保つことが、私の持ついかなる宗教よりも大きな部分を占めていた。」
 「1883年のある夕方、産婦の往診からの帰り、暗い道を下ってくると、何かサーカスのように大きなテントの前を通り過ぎた。大勢の人々が集まっており、私は、何が行われているのだろうか見るため、中をのぞき込んだ。年老いたひとりの男が、大勢の群衆を前に、演壇の上で祈っていた。その祈りの長さにうんざりして、私は、その長々とした祈りの最中に、帰りかけた。その時、彼の隣にいた元気なひとりの人が飛び上がって叫んだ:「この兄弟が祈り終わるまでの間、私たちは賛美歌を歌いましょう。」宗教的であるものの中にある、慣習に捕らわれないと言うか、分別か、あるいは、ユーモアといったものは、私にとっては、新鮮であった。既成教会内で、秩序や儀式を妨げたり口論したりする事は、罪であった。」

 「祈りを中断させたのは、今晩の説教者だとある人が言った。私はそれで、彼の話を聞くためにとどまった。私は、その人のことを少しも知らなかったし、その後14年たっても、彼に再度会うことはないが、彼は、私の心に新しい概念を残した・・・彼の説明は、全て私たちの身近な環境の中から引用された。キリストに関することは勿論、全てのことを非常に単純に、人間的に語ったので、全ての人の心に触れる話であった。」
 「説教者は、見たところ普通の平信徒であった。私は、非常に熱心に、話を全部聞いた。というのは、彼が、粉々にしてしまうプロの大なたをふるうように感じなかったからです。集会が終わってから、ある人が、私たちがずっと聞き入っていたD.L.ムーディという人の書いた、「いかにして聖書を読むか」と題された小冊子を私にくれた。その後数日間、時間があれば、私は、その本のアドバイスに従って、よく知られた物語を、新しい観点から、新鮮な興味を持って読んだ。ちょうど、私が、身体の取り扱いの導きを求めて、医学書を調べるのと同じように、私は、聖書の中に、人生の導きを探していた。私は、突然、目覚めさせられ、以前は、与えられたことをごく当たり前のこととしか考えていなかった人生を外側から眺めているかのようであった。この生ける指導者の概念・・・彼を受け入れた全ての人を、彼は変える事が出来、事実変えた。また、あらゆる所にいるあらゆる階層の人々の中で、文字通り、普通の人々共に歩み、彼らが競技をする事が出来るようにし、見えないお方を見つつ忍耐させる事が出来るお方に、私は魅了されてしまった。それはまた、歴史に関する私の全ての知識と、私の個人的な体験とを一致させた。」
 「それからしばらくして、どの位してからかは忘れてしまったが、スポーツに関心のある世界中の人が知っている、何人かの運動選手が、東ロンドンで、クリケット選手や、漕艇選手たち、国内で、また世界的に有名な運動選手たちに講演すると広告された。私は、彼らがどんなことを語るのか聞いてみたいという強い関心を抱いた。彼ら七人は、太西洋を挟んだ両大陸において「ケンブリッジの七人」として知られ、しばらくして、彼ら全てが中国へ赴いた。彼らの信仰が、ヨハネや、ペテロや、パウロの信仰が、一時的な感情のひらめきのようなものではないのと同様であることは、彼らは、みな安楽な生活をすることの出来る豊かな財産をもっていたにもかかわらず、35年後もなお、全員が、その地に留まっている事実が証明している。彼らの中で、私が、実際に話を聞いた人は、偉大なクリケット選手であった・・・これだけの年月がたっても、私は、今なお、彼の語った大要を思い出すことが出来る。それは、「あなた方が仕えようと思うものを今日選びなさい。」仲間や他の人々を恐れる自我か、キリストか?という年老いたヨシュアの宣告であった。」
 「その時、わたくしは、彼の言う通りだと感じ、そして、今日、なおそう私は信じているのであるが・・・私は、キリストの足跡をたどって歩む事は、人生の意味を教え、そうできないときですら、それを疑う闇ではなく、私の後悔や自責の感情を和らげてくれると確信している・・・」
 「その呼びかけの最後に、そこに出席した全ての人に、決心をした人は立ち上がるように促した。その集会には、私のたくさんの友人たちが出席していたので、私は、恐れのために座席に縛り付けられているように感じた。半円形の座席の前の方に座っているのは、ほとんどが同じセーラー服を着た、たくさんのがっしりした若者たちであった。彼らは、港の訓練船からやって来た人々だった。突然、ひとりの小柄な少年がそこに立ち上がり、多くの人々は驚きのまなざしで見つめた。私には、その少年にとって船に戻ってから、それがどういう意味を持つことであるか、よく分かった。そして、それが、私をも立ち上がらせる勇気を与えた。この一歩を、私は、ずっと感謝してきた・・・全くのところ、ほんの一瞬の決断であったけれども、それが、私にとって人生の意味を完全に変えてしまった。」