H・A・アイアンサイド
「主が任命した人」

 私が、最初にハリー・アイアンサイドに会ったのは、1922年のことで、私はまだ若かった。当時、アイアンサイド兄は、プリマス・ブレズレンの間で、活躍しており、「アイアンサイド博士」と呼ばれることを嫌っていた。数年後、テキサス州ダラスにおいて、彼は私を昼食に連れていってくれた;そして、ちょっとしてから、彼は、私に、当時彼が牧会していたシカゴにあるムーディ記念教会のグループに話してくれないかと頼んだ。その頃までに、彼は、国内的にも、国際的にも有名になっていた。今日、アイアンサイド博士は、広く使われた、聖書講解や、その他の著書で高く評価されている。これらの著作物は、単純で庶民的であるが、批評的な研究にも耐えるものです。その作者であるアイアンサイド博士は、耐えざる研究によって非常に幅広い知識を持っていた。

 彼の回心物語は、スカイラー・イングリッシュが書いた「主に任命された人(ロワゾー兄弟出版)」という伝記の中に全く同じ物が見出されるのだが、アイアンサイド博士がその何年も前に出版した「私の神への回心」というパンフレットから引用する。

 「かなり幼い頃から、神は、神の言葉を通して私に語りはじめられた。私の記憶の中から、最初に語られたのが何時であるのかを思い起こすことは難しいが、その時、私は、何か永遠の存在を感じた。私が失われており、キリスト・イエスが、私を救うため天から来てくださったというのが、私の幼い心に印象づけられた第一の神の真理であった。」「私たちの家庭には、しばしば、質素で敬虔なキリストのしもべ達がやってきた。私にとって、彼らは、永遠の雰囲気を運んできたように感じられた。しかし、実際の所、少年の私にとって、彼らは悩みの種でもあった。彼らが、「ハリー、君はまだ、新しく生まれていないの?」と探ったり、「君は、魂が救われた確信があるかい?」と、同様に鋭い質問をされると、答えに窮してしまった;私は、どう答えて良いか分からなかった。」

 「わたしは、いつも信じてきたように思えたが、私は救われましたと確言することは出来なかった。今、私は、イエスについて、いつも信じてきたが、個人的な救い主としてイエスを本当には信じていなかったことを知っている。その二つの間には、救われている者と失われている者との間にある全ての違いが存在する。

 「その時、私はおよそ14歳であった。ある日、学校から帰ってきて、良く知ったひとりのキリストのしもべがやってきたことを知った。私は、以前、彼が、どんな挨拶をしたか良く知っていたし、もっと幼かった私の心を探るような質問をしたことも覚えていた。それで、驚きはしなかったが、それにも関わらず、彼が大声で、「やあ。ハリー坊や。会えてうれしいよ。君はもう新しく生まれたかい?」と言ったとき困惑し、顔が紅潮した;私はうなだれて、返す言葉もなかった。

 「分からないのかい?」「じゃあ、行って聖書を持っておいで。ハリー。」と彼は大きな声で言った。
 「私は、その部屋から出ることが出来てうれしかった。そして、すぐに聖書の置いてあるところに行き、失礼にならないだけの時間そこにとどまり、そこで、いつもの自分を取り戻そうと思った。その部屋に戻ると、彼は、親切に、でも真剣に、「ローマ人への手紙3章19節を、声を出して読んでくれるかい?」
 「ゆっくり私は読んだ。『・・・それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。』私は、みことばを自分に当てはめ、言葉を失った。その伝道者は私に語り続け、自分も、神がキリスト様を見せてくださるまでは、宗教的な罪人であったこと話してくれた。彼は、私に、同じ立場に立つことの重要性を印象づけようとした。」
 「その時、私の魂の破滅を求めるサタンは、私にささやいた。『もし、失われているなら、どうして、この世が提供し、楽しむことの出来るあらゆる楽しみを味わわないのか』私は、そのサタンの言葉を真に受け、それから半年ほどの間、いつも良心は痛んだが、他の誰よりも、愚かなことを切望して過ごした。」

 「1890年のある夜、ほとんどが私よりも年長の若者たちと共に、パーティに出かけ、夜の楽しみに夢中になっているとき、ついに、神は圧倒的な力で、私に語られた。私は、今でも覚えているが、私は客間から出て、冷やした飲み物を取りに、ちょっと、隣の部屋に行った。軽食や飲み物が置かれたテーブルの傍らに一人立っていたとき、魂のもっとも深いところに、何ヶ月も前に学んだいくつかの聖書の言葉が、突き刺さってきた。かくも長く、キリストを信じることを拒み、私のために死んでくださった方よりも、自分自身の思いのままの人生を歩むことを優先させてきた私自身の恐るべき罪を発見した。」

 「私は、応接間に戻り、彼らの空しい愚行に仲間入りし、心を休めようとした。しかし、全てのことが、全く空しく思え、見かけ倒しの輝きは、去った。永遠の光は、その部屋に輝いており、だれが、私たちに定められた神の審判を、笑うことが出来るだろうかと思った。私たちは、断崖絶壁の淵で、目をつぶって遊んでいる人々であるかのように思え、その中でも、もっとも不注意なのが私であるように思えた。」
 「その晩、私は、急いで家に帰り、こっそりと二階の私の部屋に入った。明かりをつけ、私は聖書を取り、跪いた。どうしても祈らなければならないという漠然とした感じがあった。しかし、『私は、何を祈ればよいのか?』という考えが浮かんだ。すぐに、『何年も、神が提供しようとして折られたものを求めて祈れ』と答えが返ってきた。」

 「私の愛する母は、常々『ローマ人への手紙3章か、ヨハネの福音書の3章から始めるといいのよ。』と言っていたので、その聖書の箇所を開き、注意深く読んだ。明らかに、私が自分ではどうすることもできない罪人であること、しかも、その私のために、キリストが死んでくださり、それゆえ、彼を信じる者全てに、救いが無代価で与えられることが分かった。二度目に、ヨハネの福音書3章16節を読んだとき、『そうだ。ああ、神よ。あなたが私をずっと愛していてくださり、あなたの御子を私のためにお与えくださったことを感謝します。私は、イエス様を、今、私の救い主として信じます。また、私は永遠のいのちを持っていると告げるあなたの言葉を基とします。』と祈った。」

 「その時、私は、わくわくするような喜びを期待した。しかし、そのような喜びはやってこなかった。何か間違ったのではないだろうかと思った。私は、キリストへの愛が突然、溢れてくることを期待した。しかし、そのどちらもやってこなかった。こんなにも感動がないのは、私が本当は救われていないからではないだろうか?と恐れた。私は、その聖書の言葉をもう一度読んだ。そこには何の間違いもなかった。私を含めた世を、神は愛された。神はそのひとり子を全て信じる者を救うため与えられた。私は彼を私の救い主として信じた。それ故、私は永遠のいのちをもっているに相違ない。再び、私は、主に感謝をささげ、立ち上がり、信仰によって歩み始めた。神は偽られなかった。私は、確かに救われたことを知った。」