アイラ・サンキー(1840-1908)
<D・L・ムーディーの有能なチームメイト>

 有名なムーディとサンキーは、長い間、協力して、アメリカとイギリスにおいて、注目に値する伝道活動を続けた。最初に名前のあがったムーディという人物は、説教をした。彼について書かれたものは沢山ある。第二に名前のあがったサンキーの方は、私たちに、彼ほどには知られていないため、それほど注目に値する人物ではないと思われがちである。

 「ひかりの高地に(聖歌514番)」、「九十九匹の羊は(聖歌429番)」、「みつばさのもとに(新聖歌256番)」、「霧が晴れると」などの賛美歌を聴いてわくわくしない者はないでしょう。これら全ては、アイラ・D・サンキーによって作曲されたものです。曲ばかりではなく、作詞作曲をした賛美歌には、「嵐の時の逃れ場」がある。この人は、才能があったばかりでなく、その恵まれた才能を、完全に、神の働きのために聖別した人であった。

 サンキー氏は、事実、有名なムーディ伝道チームの中で、音楽面においてばかりでなく、その魅力的で快活な人柄と、深い霊性によって、参加する集会で、重要な役割を果たしていた。また、彼の謙遜な人格は、喜んで陰にとどまることによって、示された。

  英国に伝道チームが到着したとき、ある人々は、サンキーとその携帯用のオルガンを笑った。超保守的で、伝統に縛られた礼拝者達は、それを「悪魔の警笛箱」とすら呼んだ。しかし、普通の人々がその集会に集まり、人々の心が感動したとき、それ以上いかなる弁明も必要がなかった。

  サンキー氏が、時に、どのようにしてメロディーを作曲したかを物語る有名な逸話は、彼の作品として最も良く知られ、また、今なお愛唱される「九十九匹のひつじは」に関するものでしょう。この賛美歌がどのようにして作曲されたかを物語るあまたの賛美歌物語の中には、若干の異同がある。恐らく、それは、ムーディとサンキーがスコットランドの特別な集会に参加するため、列車で移動中であったと思われます。その途中、サンキーは、アメリカに関するニュースを読みたくて、新聞を買った。彼が期待する記事はなかったが、ふと、新聞の片隅に載った「九十九匹」という詩が目に留まった。彼自身の言葉によると、「私はすぐに、これに曲をつけたら、すばらしい伝道賛美歌になると直感した。」という。彼は、軽い気持ちで、その記事を切り抜き、ポケットに入れた。

  2日後、ムーディは、「よい羊飼い」という、人々の心を捕らえる説教をした。そのメッセージの結論まで来ると、ムーディは、サンキーの方を振り向き、「集会の締めくくりに、何かふさわしい賛美歌を独唱してほしい。」と頼んだ。サンキーは、「ふさわしい賛美歌が何一つ思い浮かばず、どうしようかと、非常に困った。」と物語る。しかし、「列車の中で見つけた詩を歌え」という内なる声を聞いたように思った。そこで、彼は、ポケットからその紙を取り出し、オルガンの上に置いた。「天を仰ぎ、神よ助け給え・・・と祈った。手を鍵盤に下ろし、変イ長調の鍵盤を弾き、歌い始めた。次から次へとメロディーが与えられた。」その賛美歌が、そのまま、変更されることなく、今日まで歌い継がれている。

  サンキー氏の回心に関しては、様々の資料を参照したけれども、完全な形で利用可能なものがないように思われた。そんなとき、偶然、1878年に出版されたかび臭い大巻を発見した。それは、ほとんどが、D・L・ムーディの説教が収められているが、そこに、ムーディとサンキーの生涯を概略したものがあった。その一部を紹介しよう:

  「最初の弟子たちが、主によって、世界の収穫の畑で、心を一つにして共に労するため、ふたり一組で遣わされたように、神の摂理によって、その福音説教者(ムーディ)は、福音歌手を与えられた。説教者の方は、逆境と自己犠牲という困難の学校において訓練を受けた。一方、彼の仲間である福音歌手は、幸福なクリスチャン牧場主の敬虔な影響のもとで育てられたので、その人格全体が幼い頃の幸せな体験によって落ち着いたものとなり、穏やかで快活な人物となった。個人的な訓練は、奇妙なほど違っているが、主の御手によって非常に巧みに組み合わされた。」

  「アイラ・D・サンキーの誕生(1840)の地は、ペンシルベニア州の西部であった。彼の両親は、メソジスト教会員であった。父親は、世的な環境から全く離れた人で、その良い評判から、何度も州議会の議員として選ばれた。また、彼は、その教会に於いて、信徒説教者としての免許を与えられた人であった。このように、この一家の主人の資力と人格とは、一般教養と霊的真理を育成するために大きな利点があった。」

  「アイラは、幼い頃から明るく信頼される性質で有名だった。彼は公の奉仕における輝いた顔で人々をたいそう魅了したが、それは少年時代からの際だった特徴であった・・・彼の父は、『歌う賜物は、彼がごく幼いときから明らかになった。私が賜物というのは、神が与えられたものだからです。彼は誰からも教えられたこともなかった。彼の音楽趣味は、少年時代から、ほとんどどんな楽器でも無難に音楽を奏でることができた程であった。』と語る。」

  「フレイザーというスコットランド人の農夫が、その幼い少年に関心を抱いた:彼の良い影響について、スコットランドでの子どもの集会を思い返して、サンキーは、次のように述べる:『私が、まず、信仰生活に関して覚えていることはといえば、彼との関係です。私は、彼が、自分の息子達と私の手を引いて、思い出深い古い教会の日曜学校に連れていってくれたことを思い出します。彼は実直な人で、私は、彼が立ち上がって子供たちと遊んでいる姿を見ることができた。彼は、広い暖かな心を持っており、子供たちは皆、彼が大好きだった。私が回心したのは、ずっと後のことになるが、私が子どもの頃、その人から受けた影響が非常に大きい。』」

  「このように、彼は、温かく宗教的な雰囲気の中で育てられ、彼を知るすべての人々から、好意的に受け入れられ、尊敬された。また、仲間の少年たちからは、リーダーとして認められていた。アイラは、このような環境で、15歳まで育ち、キリストを信じ回心した。彼が罪人であるとの罪の覚醒を体験したのは、彼の家から3マイルほど離れたところにある小さな教会で持たれた数回連続した特別礼拝に参加したときであった。最初、彼は、物見高い友人達と同様、のんきであった。しかし、毎晩、ひとりの熱心なクリスチャンが、魂を探るような短い言葉を掛けてくれた;一週間、悩んだあげく、彼は、罪人として救い主のもとへ行き、信仰を受け入れ平安を得た。その後すぐ、彼の父が銀行の社長に就任し、ニューキャッスルに引っ越し、アイラはメソジスト教会員となった。」

  「その若者は、霊の歌を歌う才能を豊かに与えられていた。彼の思いやりのある朗らかな心がよくにじみ出た純粋で美しい歌声は、聴衆の心に彼の心からのメッセージを伝える力があった。彼は、主を礼拝するために、その賜物を喜んで用いはじめた。聖霊が、彼の歌のことばを祝福して、礼拝に出席して彼の賛美を聞く人の心に、回心をもたらすようにという事が、彼の絶えざる祈りとなった・・・この頃から、彼は、独唱して福音の招きを歌うようになった。美しい賛美歌が、まさに祈りのスピリットをもって歌われ、歌い手の信仰は、度重なる祝福によって報われた・・・教会の聖歌隊も、彼の指導のもとに置かれた。彼は、賛美歌唱者が、神の家にふさわしい者で、歌う一つ一つのことばをはっきりと発声することを強く求めた。」

  サンキー自身の賛美については、アードマンのキリスト教史ハンドブックの中に、「19世紀の人々は、サンキーが1875年に歌うまで、ほとんどバッハの作品を聞いたことがなかったと言われている。」という驚くべき記述がある。

  何よりもまず、サンキーは何度も賛美歌集を出版したことで有名です。専門家によれば、彼の賛美歌と独唱曲集は、安物のパンフレット(1873年)から、1200曲収録された本にまで成長したと語る。ウィクリフ教会人名辞典によれば、彼の出版物は5億冊以上売れた!という。その著作権料は、ムーディが設立したキリスト教団体の維持のために用いられている。」

  願わくは、引き続き神が、地道でしかもはっきりとしていて魂を探る福音説教と賛美とを与えて下さるように。