マルタ・スネル・ニコルソン
神の詩人

 1956年8月の晴れた日曜日、私は、カリフォルニアのロミタ近くの小さな教会で説教するよう頼まれた。その午後は予定がなかったので、良かったら、マルタ・スネル・ニコルソンが晩年を過ごしているウィルミントンまでドライブしてはどうかと言われた。私たちは、それが迷惑な訪問にならなければよいがと思ったが、訪問をする約束をした。ニコルソン夫人も長時間の対談は困るだろうけれども、静かな訪問なら喜んでくださるだろうと思った。その時の彼女の家政婦もその通りだと言った。ニコルソン夫人は、全く体の自由がきかなくなっており、この訪問の10ヶ月後、ニコルソン夫人は長期にわたる次第に痛みが増す生活から解放されたのであった。

 そのような激しい痛みを長い年月患っているにもかかわらず、彼女を知る人々は、彼女の変わらぬ快活さに驚嘆している。しかし、何よりも際だっているのは、彼女の主に対する確信と愛である。彼女の肉体的健康が一層悪くなっても、彼女はなお、主に留まった。私たちが彼女に会ったとき、彼女のやせ衰えたからだは、彼女が長年患ってきた関節炎によってグロテスクに歪み、結核に加えて、脊椎硬直、狭心症、パーキンソン病、さらに、癌まで患っていた。彼女のキリストに対する穏やかで曇ることのない愛は、私たちを恥じ入らせた。

 マルタ・スネル・ニコルソンは、多くの人を励まし慰める詩を作る才能を主から頂いていた。病気の苦痛のため、29年間ほとんど寝たきりではあったが、文章を書き続け、900編以上の詩を書いた。その多くは、主要なキリスト教雑誌に掲載され、全米各地で読まれた。彼女の夫の助けにより、7巻が、彼らのカリフォルニアの家庭から出版され、彼女の死ぬ約9年前になくなった夫ニコルソン氏は(このことは、彼女にとってもう一つの打撃であったのだが)、「私たちは、彼女の詩を掲載した100万冊以上の小冊子を配布した。」と語った。(私は、それらの多くを持っており、加えて、彼女の死後、ムーディ出版から出版された2巻のハードカバー詩選集を持っている。)

 すべての人が、突然、回心するわけではない;非常に敬虔なクリスチャン達の中には、失われたものと救われた者とを区別する目に見えない一線を何時越えたのか、特定することが出来ない人々がいる。ある人々は、ここ彼処で受けた影響が、疑いもなく回心の助けとなり、後になって、聖霊によって用いられて彼らの回心に影響があったと分かる要素を振り返ることができるだろう。彼女の回心物語を読むことは、鮮やかな回心をしたのではない人々の励ましとなるであろうし、また、自分のクリスチャンとして生活の豊かさにいささかの疑いも抱いたことがないという人々にとっても、励ましとなるであろう。

 ニコルソン夫人は、「私の上に翻る主の御旗」(ムーディ出版、シカゴ)という非常に感動的な自伝を書いたが、その中で、若い日に、キリストと出会ったことが暗に描かれている。これらは、その素晴らしい出会いの抜粋である。

 「私の母は、家で仕事をしているときいつも歌っていた。神は、歌わない両親を持つ子供たちを気の毒に思っておられる。私は、両親が歌う古い賛美歌を聴き、それらを沢山暗唱した。私には美しい声はなかったが、その賛美歌のことばは、私の心に長い間留まり、私は計り知れない潤いを与えられた。」

 「神なき人生はいかなるものだろうか?無意味で、無益で、未完成で、実質的には、始まってさえいない。私は、神が、その大いなる情け深さと優しさをもって、私にご自身を知らしめてくださった日も、方法も知らない。私は、思い出すことも出来るだろうと思う。私にその途方もない出来事が起きて、私がスネル夫妻の娘であると同様に、活ける神の子どもとなったのは、6歳か7歳の時であったに違いない。」

 「神の子どもとされたばかりでなく、キリストと共に共同相続人とされた!神のすべての富は、私の富となった。私の罪は、キリストの尊い血潮によって洗いきよめられた。私は、天に偉大な大祭司を持ち、この方の許しなくして何者も私に触れることも出来ないという約束と、私が夢に描いたこともないような素晴らしい天の御国に、必ず、永遠に住まわせてくださるという約束を得た。」

 「私の情熱的な小さな心が、神への愛と、特に主イエスへの愛とで溢れたことは、私だけが知っている。私は主を愛して、昼も夜も、夢の中でさえ主を思った。聖書は、一人の罪人が悔い改めるなら、天に喜びがあると語る。しかし、多くの過ちでその手を汚す前に、また、いのちの書の多くのページが損なわれる前に、小さな子どもの手が主に握られるとき、天使たちは、天国の胸壁に群がり、それを眺め、喜ぶに違いない。」

 「初めて、永遠という広大な領域に挑戦する、ちっぽけでひとりぼっちの魂にとって、ぼんやりとした遠くの何かでは満足することが出来ない。心の深みからの叫びは、近くにいてその道を共に歩いてくれる愛する者を求めるものだ。それで、私は、私の主と共に歩き始め、私の手は信頼する主の手に握られている。」