ロバート・T・ケッチャム
「妥協の敵対者」

 ロバート・トーマス・ケッチャム博士は、今世紀の中頃、長きにわたって、アメリカの最も偉大な説教者の一人として数えられてきた。私はかつて、ロサンジェルスにある影響力のあるオープン・ドア教会の牧師、ロイス・T・タルボット博士から、彼を、極めて高く評価する言葉を聞いたことがある。タルボット博士は、「ケッチャム博士さえ都合が付けば、自分はいつでもこの教会の講壇をケッチャムは貸せにまかせる備えがある。」と語った。また、一度ならず、私は、ケッチャム博士の熱烈なメッセージに魅了される聴衆の姿を、自分もその聴衆の一人として目撃した。

 しかし、ケッチャム博士は、講壇の力だけで特徴づけられる人ではない。彼は、現代主義と妥協に対して徹底的に反論し、講壇と文筆活動を通して、そのまちがいを暴露し続けた人として長く記憶にとどめられるだろう。彼は、一般的なバプテスト教会の全体連絡会議の形成に道を付けた。彼は、その定期刊行物である「バプテスト広報」を、長い間編集した。彼は、沢山の本や、おびただしいパンフレットを書いた。彼のムーディ出版から刊行された「私は望まない」という本は、増刷し続けた(私の持っているのは、三年の間に7刷を重ねたものである)。ケッチャム博士の深い関心と識別力は、広く認められたので、彼をして、いくつかの学校や、宣教団体の理事に就役させる事になった。彼はまた、宗教訴訟問題(教派問題を含む)において証言をする専門家とも呼ばれた。後年、彼がほとんど目が見えない状態であるにもかかわらず、これらすべての名誉が彼に帰せられた。

 私は、しばしば、ケッチャム博士と個人的に交わりを持った。そこには、いつも沢山の人々がいたが、一度、非常に光栄な出来事があった。オープンドア教会の大会堂で、ある特別な集会が持たれた後、彼を乗せて、ロング・ビーチまでドライブをした。自動車の中で二人きりになった時が、彼の豊かな知識の泉を味わったり、個人的な交わりを持つ貴重な機会となった。

 ロバート・T・ケッチャム博士については、もっと沢山のことを語ることが出来る。しかし、彼が、どのようにしてキリスト様と個人的な関係に入ったのかについて語ることにしよう。ボブ・ケッチャムの回心物語は、J・M・マードック著「従順の肖像」という彼の伝記から引用しよう:

 「父や母の証にもかかわらず、ロバートは、キリストを彼の個人的救い主として表明することなく10代を迎えた。彼は、主イエスが、自分の罪の身代わりに死んだことを知っていた。また、キリストを通してのみ救われることも知っていた。両親の証による良い影響は、彼が、キリストが両親の上に驚くべき救いをなされた事を知ったことであった。しかし、彼の心は頑なで、頭だけの知識は、何の役にも立たず、キリストに彼の人生をまかせることを断固拒絶し続けた・・・。」

 「時は過ぎ、敬虔な両親によってなされるクリスチャンホームのしつけが、ロバート少年には受け入れがたくなった。16歳になったとき、彼は、父親に、家を出て行くと言い放った。父のチャールズ・ケッチャムは、愛するゆえに心痛めながら、息子を追って頑丈な田舎の家から出て来た・・・その少年が肩を怒らせて門を出て行くとき、父親は、その後ろ姿に向かって、「おい。どうにもならなくなったら、父さんと呼ぶんだぞ!」と叫んだ。・・・ロバート少年が家から出て行ってしまうと、父親は、神の前に心を注ぎ出して祈った:「主よ。末の息子は行ってしまいました。あなたが彼を追って、連れ戻してください。私には出来ません・・・」

 「彼は、自分の前に非常事態が潜んでいようとは思いもしなかった。しかし、たちまち、彼は、次から次へとどうすることも出来ない出来事に直面し、神の真理を学ぶことになった。大概は、彼の罪深い行いに由来する突発事件であった;そしていつも、やって来ては、彼が迷い込んだこんがらかった失敗から引き出してくれる父親がいた。しかし、強情な若者は、父親が信じる神を、自分の心の必要に応えて下さる方として認めることを拒み続けた。」

 「ついに、聖霊なる神が、ボブ・ケッチャム青年の頑なな心を砕いた。1910年2月16日、アルゲニー山の20歳の青年は、聖霊なる神に促され、主イエス・キリストを彼の個人的な救い主として受け入れた。彼の回心は、ゲールトン・バプテスト教会で起きた。次第に事情が変わりはじめたが、ケッチャムのクリスチャン生活の1年目は、大成功と呼ぶことは出来なかった。彼は、自分の古い習慣のすべてを手放そうとはしなかったし、働きもしなかった。彼はしばしば、この最初のクリスチャンとしての体験を「私は、タバコを吸う習慣を続け、ビリヤードをしたり、高い声で歌ったり、日曜日にゲールトン・バプテスト教会の若い人々をからかったりする実験をした。こんな事をしても、霊的腹痛をもよおしたり、まわりの人々に霊的頭痛をもたらすだけであった。」・・・と語った。

 「その若い回心者は、説教者はみな『気取った奴らだ』と思い、あまり好きではなかった。そんなボブがたった一人、大好きで信頼できる説教者がいた。ボブが救われた夜説教をしていたハリー・S・ティリス牧師であった。ボブは、ハリー・ティリス牧師と彼が講壇で両手を握りしめて説教する姿が好きだった。」

 しかし、青年ボブ・ケッチャムが、神の御前でのクリスチャンの素晴らしい立場を自分のものとするには、多くの道のりがあり、多くのことを学ぶ必要があった。キリストを受け入れてしばらくした後に、彼が直面したことは、若者に対する彼の大胆さが明らかになり、キリストに関する事柄については、もっともっと成熟しなければならないということであった。

 彼の出席する教会の聖書修養会に、聖書教師がやってきた。W・W・ルーであった。彼は、教会の正面に大きな聖書図表を掲げて教えた。これが、その青年に興味を持たせた。「ボブは、日曜日のメッセージに非常に魅了されたので、月曜日の夜にも、ビリヤード場に行く代わりに、教会に行こうと決心しやってきた。再び、彼は、W・W・ルーのユニークな奉仕を楽しんだ。その結果、彼は、火曜日の晩にもビリヤード場に行くことを忘れて、教会に行き、説教のない水曜日の夜にもと、立て続けに教会にやってきた。」

 キリストにある私たちクリスチャンの立場についての深い真理が、その若者にとって、あまりに新鮮で聞いたことのないものであったので、彼は相当衝撃を受けた。彼は、牧師か、執事たちの中の誰か(その中には彼の父親もいた)がその講演者に異議を申し立てるのではないかと思った。しかし、だれもそうしなかったので、彼は、講演のちょうど真ん中に割って入った。ボブは、その事について何かすることが自分の責任であると思った。彼は、立ち上がり叫んだ。『ルー先生。私はそれを信じることが出来ません!』

 会衆は、仰天したが、講演者はその若者にとても寛容で、彼に質問しはじめた。講演者が、ヨハネの福音書17章を開くように語ったとき、ボブは聖書を持っていないことが分かった。ルー先生は、彼に自分の聖書を手渡した。ロバートは聖書を取り、ヨハネの福音書を探し始めた。彼は、聖書の中にヨハネの福音書があることは知っていたが、どこにあるのかは知らなかった。そこで、彼は探し続けた。彼が探している間、ルー兄弟は、ただそこにほほえみながら立ち、彼をイライラさせておいた。ついにボブは、聖書の後ろの方の黙示録付近に、ヨハネを発見したが、そこには17章はなかった。彼が、この事実をルー先生に話すと、会衆はクスクス笑った・・・。ボブは、聖書には、ヨハネの手紙同様、ヨハネの福音書があるという事を教えられるべきだった。彼は、該当する聖書の箇所を教えてもらい、それを読むように求められた。ボブは、二の句も告げることが出来ず、その真理を強く確信した。混乱のウロコが目から落ちて、キリストを個人的な救い主として受け入れたとき、ボブは神のなしたもうた奇跡を理解した。

 その夜、ゲールトン教会のすべての人は、神がひとりの人をお救いになるとき、どのようなことをしてくださるか、新しい発見をした。そして、年取った説教者に挑戦したその若者にとって、救いの奇跡について新しい理解を得たことが、神の御霊によって用いられ、永続する変化を生み出した。古い習慣は、次第に姿を消し始めた・・・。

 その後の年月のみが、その結末を語ることが出来る。50年以上、優れた奉仕をなした後、ケッチャム博士は、牧師である彼自身の兄弟に、こう書き送った:「神が、一人だけでなく私たち二人をお救いになったという事実は、ゲールトンに昔から住んでいる人々には今なお驚嘆すべき事として記憶されている;また、驚嘆すべき事に、私たちの罪との交わりの日々が、神の恵みの奇跡によって、福音の奉仕の交わりの日々に変えられた・・・。」