◆ 半月盤損傷 ◆

 

私は、小学校4年生から中学校3年生まで「バレーボール」に夢中だった。

背があまり大きくないので「名選手」として活躍したわけではないけれど、中学の頃は『セッター』というポジションでレギュラーとして試合にも出 させてもらっていた。 そんな私は高校に入学してもバレーボールを続けて行く決心をしていた。 小学校や中学校と違って、高校はいろんな学校から人が集まってくる。 「バレー部」に入部して来た人も半端な数ではなく、入部したばかりの頃は当然 「球拾い」の毎日。つまんない、つまんない.... でも、私にはこれしか打ち込めるものがなかったので辞める気は全くなかった。   2ヶ月くらい経ったある日、やっとボールを使っての練習が始まった。 初めての子もいれば、私のように経験者もいた。 その中でどれだけ自分をアピール出来るかが私の課題。 初めは、2人組での練習。「トス」「スパイク」「レシーブ」の繰り返し。 それをいかに長く続けられるかが最大のポイント。 たまたま同じクラスのKちゃんが経験者だったので、私は彼女と組む事となった。 中学の頃「エースアタッカー」だったKちゃん。 そして「セッター」だった私は最高のコンビで注目を集め、先生から声がかかった。   新入部員が50人近くいるのに対し、先輩部員はなんと10人。 そこで顧問の先生は、練習試合の対象として「1年生だけでチームを作る」と 言い出したのである。そこで、目の色が変わったのは言うまでもない。  

厳しい練習に耐え、念願の「1年生チーム」に入る事ができた私は、 勉強なんかそっちのけ、友達が夢中になってるディスコ通いより、部活動がなにより 楽しかった。  

ところが、そんな楽しい学校生活がある出来事でガラっと変わってしまった。  

それは学校行事である「球技大会」の練習中に起こった。 バレー部員である私は当然、バレーボールの種目には出られない為 もう一つ得意とするバスケットを選んだ。 体育の授業中に行われた2年生との練習試合での事。 久しぶりのバスケットではりきっていた私は、練習試合だと言う事、 そして、その相手が2年生だという事を忘れ本気を出してしまった。 そんな私は当然のように集中攻撃を受けた。 相手のシュートがはずれ、リバウンドのボールをジャンプして取り、着地した瞬間、 相手の1人が全身で私にのしかかって来た。 着地した瞬間だった為、自分の体重に加え、のしかかってきた人の体重が右足に集中した。 「バキッ」という音を耳と体で感じた私は、その場にうずくまった。 「痛い、痛い!」と泣き叫ぶ私を見て、ぶつかった先輩も泣き初め、その場で試合は中断。 担架で保健室に運ばれた私は自分の膝を見てビックリした。 なんと、2倍に腫れていたのである。痛いはずだ。 ところが、保健室の先生は病院に連れて行くどころか、 私の興奮が治まると教室に帰るように指示した。 でも、いざ歩こうとすると、どうしても右足に力が入らない。 「先生、歩けないんですけど」と言う私の言葉に先生は「腫れてるからよ」の一言。 冷静になっていた私も、大丈夫だろうと軽く考えていた。 しかし、その日の授業が終わっても「痛みと腫れ」はおさまる所かひどくなって行った。 仕方なく部活を休み、お母さんに電話をして学校まで迎えに来てもらい そのまま病院へ直行した。 念のためレントゲンを撮ってもらったが、骨には異常は見られなかった為 腫れた原因の膝に溜まった水を注射器で抜いてもらった。 そこで私が見たのは「水」ではなく「血」だった。 「これって大丈夫なの?」と心の中でいいながらも、 病院の先生が言う事だから....と信じてしまった。 しかし、まともに歩けない私は当分の間「松葉づえ」での生活を送る事となった。   大好きなバレーボールもできない、体育の授業も見学で参加できない。 遊びにも行けない。 そんなつまらない毎日も2ヶ月が過ぎた頃、やっと普通に歩けるようになり、 部活動、そして体育の授業を許された。 でも、その喜びは1日ももたなかった。 部活動の最中、ジャンプして着地した瞬間、その場にうずくまったまま立ち上がれなかった。 また同じだ.... 「あの病院はあてにならない!」と、初めにかかった外科から接骨院へと病院を変えた。 そして、その日のうちに石膏で膝を固定された私はまた「松葉づえ」の生活へと逆戻り。   そんな「使えない私」をバレー部の1年生チームは待っててはくれなかった。 いる場所を失った私は大好きなバレーを辞める事を余儀無くされた。 それどころか、体育の授業さえも見学の日々。   つまらない...... そんな私は普通に歩けるようになると校則違反のバイトをはじめた。 好きなバンドに夢中になり、学校を平気でサボって地方までコンサートを観に行く。 住む場所も違う、歳も違う、そんな友達をたくさん作った。 今まで生きて来た小さな枠の中だけの生活から抜け出して、初めての経験をたくさんした。 自分でお金を稼ぐ事。新幹線や飛行機に乗る事。知らない土地に行く事.... 人との付き合い方。人それぞれの考え方。 その時見たもの、感じたものを全て吸収して、それまでの自分を変えたかった。 人は、「何も高校生でそんな事をする必要はない」と言った。 でもその時の私は、バレーボールを続けられなかった「くやしさ」を 何か他の事に夢中になる事でしかまぎらわす事ができなかった。 その「何か」も、日常にある普通の事ではダメだった。 初めは、高校の友達と夜遊びに行ったりしてそれなりに楽しんではいたけれど、 それだけじゃポッカリと開いた心の隙間を埋める事はできなかったのである。 「普通」では埋められない程ショックだったから。   でも現実では、自分の思いどおりに行動して、楽しい毎日を過ごしていても 膝の調子はいつまでたっても元に戻る事はなく、それどころかひどくなっていった。 おとなしく「松葉づえ」で生活をしていれば良くなるものの、 階段の昇り降りでおかしくなり、良くなっては今度は走ってはおかしくなり、 最後には歩いてる最中におかしくなるようになった。 これは「レントゲンで見えない原因があるに違いない」と、 通っていた接骨院の紹介で、有名な整形外科で診察を受ける事になった。 その診断の結果は「右足の内側の靭帯損傷」という事だった。 しかし、それ意外にも何か原因があるかもしれない。 でもそれを調べるには膝に内視境を入れて見てみないと分からなかった。 手術かぁ.... でも、この痛みと普通に歩けなくなる原因が分かるなら...と手術を決意した。  

3年生に進級する前の春休み。 私は初めての入院、そして手術を経験した。 内視境で膝の中を診察した結果、「右膝の半月盤損傷」だった。 割れた半月盤の欠片が関節の間に入り込む為、膝が動かなくなったりしていたのだ。 その場で割れた半月盤を取り除き、手術は成功。 手術後のリハビリも順調にこなした私は、2週間という早さで退院にこぎつけた。   長かった。 高校生活の約半分を松葉づえで過ごしたのだから..... 小学校から続けたバレーボールを途中で辞めた事はくやしかったけれど、 松葉づえの生活から解放された事が素直に嬉しかった。 このまま行けば、いつか普通に歩けなくなるのかもしれない....とさえ思ってたから。  

あの練習試合の日。 あの時にケガをしなければ、今はどんな生活だっただろうか? 正直に言えば、半月盤損傷については手術後は何の問題もない。 でも、靭帯の方はそのままの状態である。 時々、ふとした瞬間に痛みと共に膝が外れるような時がありドキッとする。 雨が降る前日や寒い日など、言葉では表現できない「痛み」が続く事もある。 でも、大きく残ってしまった「膝の傷跡」を見る度に、 「松葉づえなしで、歩けるだけましかぁ.....」と納得するのであった。   高校時代、誰の言葉も聞かずに好き勝手してた事を全然後悔してない。 今の自分は、あの時に歩き始めた「人生行路」の途中を歩いてるに過ぎないから。 時々振り返って「間違っちゃったかな?」と思ったのなら、自分で戻ればいい。 戻れなければ、違う道を探せばいい。 何かを失ったのなら、違う何かを探せば人は歩いてゆけると私は思うから。