◆ ヘルペス ◆
何だろう?それは言葉に出来ない激しい「痛み」だった。骨髄移植から約3ヶ月という最短記録で退院した私は2週間に一度の通院をしながら「お嬢様」のような生活をしていた。無事に新しい年を迎え、大好きなバンドのツアーが始まる。今度はどこへ行こうか?なんて浮かれ気分の私を「頭痛」が襲った。
1日目。いくら元気になったとはいえ、あれだけの大きな治療をしたばかりだったので休日だったが、すぐに診察をしてもらった。でも、見た目には何もない。「様子を見ましょう」という事で帰宅。
2日目。痛みの波はあるが食事は取れる。そのまま様子を見る。
3日目。起きられなくなる。「痛い」と口に出さないと治まらないほどの頭痛。病院にて診察を受ける。生えかけた赤ちゃんのような産毛の隙間に「水疱」が見つかる。緊急で皮膚科の先生に診てもらう。
診断結果は「ヘルペス(疱診)」だった。
無菌室での生活から4ヶ月が経っていたが、普通の人よりは免疫力が低下している為に感染したウィルスによる病気だ。(解りやすく言えば、子供の頃にかかる「水疱瘡」)骨髄移植後にこの病気にかかる事はめずらしくないらしい。でも、私の場合は少し違った。それが何だったのかは分からないけれど、ヘルペスと他の細菌が合併してしまい、そのウィルスが脊髄に入り込んでしまった。「このままじゃ危ない」当然の事ながらそのまま入院。すぐに治療が始まった。
感染する病気の為、外部からは完全にシャットアウト。また面会謝絶だ。思っていたよりも進行が早く、ウィルスが脊髄から脳にまで達しようとしていて入院したその日が「山」だった。「今日からまた泊まるから」と言うお母さんの言葉で察した。それと、想像を絶する「痛み」。普通じゃない。前回の入院では1度も泣かなかった私が、廊下に響き渡るくらいの大声で泣きわめいていた。強い鎮痛剤だったので、意識がモウロウとしてしまうのだ。無意識だった。自分の泣きわめく声で目が覚める。目が覚めると泣き止んで「痛いよ....」とお母さんに訴えかけた。それを何度くり返しただろう?「この薬が効かなかったら.....」と、主治医の先生にもどうする事もできなかった。後は私がどれだけ耐えられるかだけだった。
それは、もうこれ以上ない程の痛みだった時。鎮痛剤が効いてきて、意識が薄れて行く中で私は「あぁ...もうダメかもしれない.....眠りたい....そうすればきっと楽になれる....でもこのまま眠ってしまうともう起きることはないだろうな....」そんな事を考えてた。この時に初めて「死」を感じたのかもしれない。骨髄移植の時も「死」を覚悟してた。でも、頭で考えるのと体で感じるのとは全く違う。このまま眠っちゃいけいない....と、頭でわかってても体がついてこない。もう...ダメかな...どこかでそう思いながら、体で感じてた事が1つだけある。「お母さんの手」。問い掛ける言葉に反応しない私に、無言で話し掛ける手。何度も何度も優しくさすってくれてた。「大丈夫。お母さんが付いてる。頑張れ。」って.....話す事も、動く事も、目を開ける事さえできなかった。だからその時、そのお母さんの手のぬくもりだけが自分がまだ生きてるって確かめられる感覚だった。最後に「まだ眠りたくないよ....」そう思ったのを覚えてる。
目が覚めた時、お母さんの姿を目で探した。その病室からは「ガラスの中の私」にも出てくる病院の裏の空き地が見える。お母さんは外を見てた。その姿は看病疲れをした姿ではなく、気丈に見えた。私が目を覚ましたのに気付くと、ごく自然に、何事もなかったかのように「起きた?」と聞いた。「うん」とうなずいた私は『あの瞬間』が山だったと思った。痛みも薄れていた。「何か買ってくるね」そう言ったお母さんは病院をこっそり抜け出してヨーグルトを買ってきてくれた。そして、まだ起きる事ができなかった私に食べさせてくれた。
今思えばその光景は、私がまだ幼くて、記憶にも残らないほど小さい頃に何度も体験した光景なのかもしれない。それくらい「自然」だった。きっとお母さんの中では、私が目覚めるのが当たり前の事だったのかもしれない。そして、誰よりも私を信じてくれてたのかもしれない。
その後、若かった私は病気の進行が早ければ、回復も早かった。1ヶ月くらいで退院した。このヘルペスでも後遺症が残った。ヘルペスが出た頭の右上の部分の感覚が鈍い。触ってる感覚はあるが、痛いとか、かゆいとかの感覚がない。でも、中身(脳)は正常だと思う(?)
お母さんの手。それは私にとってはどんな薬よりも効果的だった。愛されてる....言葉でなんか表現できない。ドラマみたいな作り話みたいな出来事。もう二度と経験したくない。でも、あのぬくもりは一生忘れない。