ベースメントから

1


 1998年秋、アメリカに住む妹たちの家をぼくははじめてたずね、およそ1週間そこに滞在した。13歳も年齢のはなれたただひとりの妹である理子と夫のスティーブは14年前に日本で結婚し、その後、日本とアメリカで何度か住まいを変えたのちに、ニューヨークの郊外、ハドソン川をはさんだ対岸のニュージャージー州リッジウッドという町に家を買って3年ほどになる。3人の子の親となったスティーブは、ほんとうは田舎に住みたいんだと言いながら、毎朝のように前庭の芝生の上に投げ込まれるビニール袋入りの朝刊をもって車に乗り込み、駅からは電車とフェリーを乗り継いで1時間たらずでニューヨークのワールドファイナンシャルセンターにあるオフィスまで通勤している。
 3月に生れたあたらしい孫ソニアの顔を見がてら、ぼくたちの両親は新潟をはなれて3週間ほどかれらのところに滞在することになった。家族そろって相談したいことがあったので、両親の迎えをかねて最後の1週間をぼくも東京から合流したのだった。
 両親と一緒だったから、いずれにしろあまりうごきまわることはできないし、その1週間を、ぼくは主にこのまちに腰を落ちつけてアメリカの日常的な場所に接することにしようと思った。わずか1週間のあいだだったけれど、地下室に寝起きして、この町とこのいえの住人たちを通じ、アメリカについて実感をともないつつさまざまなことを考えることができた。アメリカについて考える時には、いつも日本のことを考えないではいられなかったから、アメリカを考えるということは実はアメリカという鏡に写した日本をみているのだった。

 この家の面積は地下を除いても屋根裏を含めると延べで40坪ほどだから、日本ならけっして小さいとはいえないけれど、まちを一巡りしてみると、ここでは一番小さい家のひとつではあるようだ。とりわけ、外から見れば小さく見える。玄関のドアの左右に窓がひとつずつならんだ上に平家のようにつくられた屋根に、屋根裏の子供部屋のドーマーウィンドウ(屋根窓)がふたつならび、横にガレージが加えられただけのかわいい家とみえる。
 しかし、ちょっと目をこらしてみれば、この家がただかわいいだけの家ではないことが、いたるところから読み取ることができる。建てられてからすでに50年以上の時を経ていながら外壁も内側の壁もきれいに塗装を施されているので、さながら雪におおわれたまちのように一様に美しく見えるのだが、家に加えられた手の痕跡がそこここにとどめられているからだ。なによりこの家を魅力的に感じさせるのは、古いことを誇らし気にして建っていることだ。とはいえ、骨董品のように古さそのものが価値を持っているわけではまったくない。けれども、使いこまれ大切に手入れされてきた痕跡を感じさせるもののもつ美しさや好ましさがあるのだ。この家だけではなくまわりの大部分の家たち、それらが集まって作られているこのまちそのものにも、同じような好もしさが感じられる。

 日本でつぎつぎと建てられる家たちの多くは、作られた当初の輝かしさは時とともにみるみる失われ、粗大ゴミへのみちをひたすらに歩み続ける。土地とともに住宅を売ろうとすれば建物の価値はゼロだと評価され、ときには解体の手間の分だけのマイナスの評価を受けるというぼくたちの社会では、売買の市場に出されたとたんに古い住宅の価値はゼロになってしまう。 けれども、このまちの家たちは時とともに価値を上昇させ、現在の住み手である妹たちも、買ったときよりも高くこの家を売ろうと考えてあちらこちらと手を加えて、よりよい家にしようと努力を惜しまない。終の住処としてひとつの家に住みつづけようと考える日本人よりもむしろ、家族が増えたからここを売ってもう少し大きい家を買おうと気軽に考えるここの人たちのほうがじつは家を大切にしようとしているという逆説はすこぶる興味深い。
 最も私的な建築物である住宅も全体としてみれば社会全体の財産だと考えるなら、日本のあり方では、作られた当初に最大だった財産が時とともに減り続け、数年で他者にとってはゼロになる。けれど、100年たった住宅でもそれがちゃんと商品として売買されるこのまちでは、社会の財産は時とともに蓄積されてゆく。あのバブルの時代に日本が世界中からかき集めてきた富は、ただ空しく土地の価格を上昇させ、ゴルフ場を増やし住民に君臨する庁舎をつくり、森を減らしここちよい小さな漁港を埋め立てて終わった。社会に蓄積されたものは少ない。
 そして、今頃になってストックとしての住宅だの100年住宅などと住宅メーカーや役人が口では言いはじめた。もう、大組織や役所の言うことを額面通りには信じない。すくなくともそれを学ぶことができたのがバブルという愚かな時代の残したささやかな財産だ。量から質へというスローガンで新しいマーケットを作ってゆこうというのが最も重要な目的に違いないのだから、モノとして長もちするだけの家がつぎつぎとつくられてゆくのだとしたら、それはもっと悲惨なことになりかねない。シリコンを注入した美貌や肉体のように、年を経てもいつまでも変わらないということが100年持つ住宅なのではないはずだ。    

 だが、紙袋や紙皿やプラスティックのフォークを1回使っただけでゴミ箱に放りすて、冬にはふんだんに暖房をきかせた家の中でアイスクリームを食べ、夏には室内でスーツとネクタイをつけるというアメリカの生活を、ぼくたち日本人はあこがれてあとを追ってきた。われわれを大量生産と大量消費の泥沼に誘い込んでおきながら、ここのひとたちは背後にこんな堅実な世界をしっかりと大切に残している。日本にもちこまれた道具や映画からぼくたちは彼らの生活の断片を知ったけれど、それだけではよみとれなかったものがあまりにも大きい。単語をひとつひとつ日本語に置き換えることによって英語ができるかのようにしてぼくたちの英語教育はなされてきたけれど、それが英語という言語体系の全体からかけはなれたものになってしまうように、ぼくたちの読み取った道具や生活の断片という単語は、この国の生き方という言語体系とはかけはなれていたのではないか。

 アメリカのきわめて強い影響のもとに日本人のひとりひとりの生活も社会も作られてきたのは、けっして戦後民主主義の世代だけではない。ペリーが浦賀に押しかけてきてこのかた150年にもわたって、良きにつけ悪しきにつけあるときは進んで模倣をし、あるときは力ずくで従わされながら、くり返しくり返しアメリカのやりかたや在りかたを受け容れてきたのだ。西洋のまねをしたいばかりに、仏教寺院を破壊し仏像を売り飛ばし、古いものをないがしろにして、ほかならぬアメリカ人をはじめとする外国人にたしなめられて、あるいは、ドイツ人にほめられてはじめて桂離宮を見直す始末だった。
 アメリカではおそらく平凡なものである理子たちの家と、そのまちのあちらこちらに、われわれ日本人にとってはきわめて興味深いものが見つかる。外の文化からみて真に興味深いものは、内にとってはあたり前と思っていることにある。モノの集積としての「家」と、そこに作られる場所を読み解くことから、アメリカという、ぼくたちには矛盾に満ちたと見える存在を読み解くカギが見つかるのではないか。進歩と信じて絶え間のない変化を続け、一方ではかつて持っていた世界を壊し、自分たちの世界観を見失おうとしているぼくたちの社会を、アメリカという鏡に自らを映すことで見直して、立ち直るすべを発見することが今からでもできるかもしれない。妹たちの家の地下室で1週間の夜を眠りながら、夜明けの光とともに地表の落ち葉やオークの木々を走り回るリスたちの気配を感じつつぼくは思いをめぐらせていた。

 ぼくたちからみれば、現在でも十分ではないかと思える大きさの家に住んでいるけれど、いま、スティーブと理子は移る家をさがしている。しかし、景気のいいアメリカでは不動産の価格が高くて、希望と価格のあいだに開きがあるらしく、今でもなかなかみつからない。

/Tam

PlaceRunner目次にもどる