風土の意匠


10年にわたって、浅野平八さんが東京ガスのPR誌に連載してきた「風土の意匠]が単行本になったのでおくってくれた。当然だが感想を送ってくれという但し書きがついているから、読み終わるとすぐにメールを送った。


浅野さんへ

「風土の意匠」、とてもおもしろく読ませていただきました。一気に日本の空間を縦断して、風土と暮らし方と歴史と、それらに裏打ちされた技との織りなす複雑な立体トラスの中を通り抜けて空に舞い上が り眼下を俯瞰してみると、いわゆる地方の中心市街地の凋落やら、どこに行ってもハウスメーカーの住宅のはびこる現状への憤懣に乱された思いを整理する糸口を手に入れたような気がします。読者としては、ディテールの説明などを文章でたたみ込むように記述されていることに小気味よさを感じる一方で、写真は?、図は?と、つい無いものねだりをしてしまいます。いや、わかっているのです。発行部数と価格とを考慮に入れながら本を作るとすれば、どうしたってどこかを我慢しなきゃならない。だとすれば、ある程度の専門的な知識を持ち、自分で図を書いてみたり想像力を働かせたり、果ては地図を広げて自分で行ってみようとする人に読んでもらわなければ意味がないというわけで、こういう形になったのだろうとは、ぼくにも想像がつきます。

 このごろしきりに思うことがあります。自然というものはとても大切なものであるという了解は当然のこととして共有したうえのことだけれど、人間が時間をかけて作り上げてきたものは、ある意味ではむしろ自然よりももっと大切にしなければならないのではないかということです。個体としての人間が、いずれは死ぬことが確実であるのと同じように、種としての人間にも寿命というものがあるに違いありません。だとすれば、いずれは人類は滅び自然が生き残るということは100%確実なことであるのに対して、人間の古い文化は放置しておけば遠からず作りなおすことのできない事態になることはまちがいないからです。
 しかも、日本人が作り上げてきたくらしかたやモノは、ここが豊かな自然にめぐまれたやさしい風土であったゆえに、自然を利用しつつ自然を大切にしてきました。したがって、日本の伝統の作り続けてきたものを大切にすることは、同時に自然を大切にすることになるわけです。
 日本に限らず、金持ちや支配者たちの住まいや暮らし方は、よく言えば普遍的なスタイルがあり、たとえばヨーロッパでも王室や上流階級の連中は国境を越えて姻戚関係があり、ロシアでさえ宮廷ではフランス語の会話が交わされていたのですから地方のスタイルより時代のスタイルを共有していたはずです。日本でも武士や貴族の住まいにはさほど風土や地方のスタイルはなかったのではないでしょうか。だとすれば、風土に根ざしたスタイルというのは、地域を越えた同時代性などというものをもつすべのなかった支配される人々のものであったわけです。したがって、地域性の失われてゆく現代のありようというものが、権力が大衆の間に広く薄く分散されたことの結果であるとするならば、それはそれとして普遍的な法則に則った当然のこととして、まずは受け入れなければならないのかもしれません。
 しかし、生物の種の一部分がつぎつぎと絶滅してゆくことが適者保存の法則にしたがったことにすぎないといって手をこまねくとすれば、それはまったくの間違いだということは、ほぼ世界中の共通認識になっています。地球環境が大きく変化したときに適応できるような種、あるいは個体の遺伝子が、そのときに用意されていなければ、環境の変化に対して適応のしようがなくなってしまうからです。

 民家がどのようなものであるかを知ること以上に大切なものがあると「風土の意匠」は伝えます。かつて、民家はそのまわりのさまざまな自然や人の生活のスタイルに適応して作られた。周りの環境の変化によって民家は生き残ることが困難になってきたのだけれど、民家を読みとれば、それが何に適応して作られたのかが分かるはずですから、かつて人間のまわりにあった環境や生活のあり方を知ることができるはずです。

何がまちを悪くしたかについてもいろいろ思うところはあるのですが、それについてはまた改めて。

追伸

ホームページ見ました。本では伝えきれていなかったことの一部をカラー写真が満たしてくれます。ディテールをつたえる写真などもあるとうれしい。/Tam


今年の夏には、「算段師」の仕事を見にみんなで富山の現地にゆこうということになった。


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