素晴らしい天気:ヒューストン便り2


丹下誓氏からの第2信が届いた。

 ボルネオのサラワク州に住んで居た時は、賓都魯(ビンツル)という小さな町だったが、散髪屋だけは沢山あった。ヒリヒリと暑い日曜日の午後に、モスクの側を通りぬけて、ようやっと見つけた日陰に車を停める。階段を上がって店に入ると、馴染みの美容師が冷えた中国茶のコップを出してくれた。椅子に座って眼鏡を外し、バリカンで散髪、座ったままの洗髪、盛大に泡が飛び散る。すべてが終わってエクストラを払うと、隣の部屋でマッサージを受けられた。薄暗い部屋に、行儀良く並んだベッド。洗いざらしのタオルを巻いた人懐かしい匂いのする枕を抱いて、うつ伏せに横たわる。指圧の指が、首筋から肩と背中、尻と太ももを下がり、脚の先まで移って行く。ラジオの音楽が低く聞こえる。中国語の歌謡曲。物悲しくも陶然となって来る。スタンドの明かりをズズズッと引きずる気配。耳掃除が始まる。ゆっくりと挿し込まれる湿った綿棒、次ぎに薄い竹べらを使って。照らされて暖かい耳。体で聞く音楽。全身が気だるくなる。そんな時、戦争で死に損ねた釣師の言葉を思い出した。平和な時代の釣行である。「魚影は走らず、水底の砂がキラキラと光る。私は水際に立つ一本の杭になった。既にして、もう、私はノ..死んでいるのかもしれなかったノノ」。

 今日また散髪に行った。ここヒューストンでは、暑くて湿った不快な夏が過ぎ、涼気が辺りを満たす素晴らしい天気の1日だった。片耳だけにイヤリングを吊った理容師が、自分のブースで迎えてくれる。「5週間振りダネ」。鏡の隅には愛犬の写真が貼ってある。ラップミュージックが何処ともしれぬ天井の辺りから降ってくる。電気バリカンでちょこちょこっと散髪。そして洗い場でシャンプー。黒人の大きなオバさんが足乗せ台を調整しながら「元気?」と聞く。「元気だよ。奥さんも犬も。すべてOK。それに素晴らしい天気」。力強い指でゴシゴシ頭を洗いながらオバさんは答える。「ホントに良い天気だねえ。こんな素敵な日に何も起こるわけはないよノ.」

ところが起こったのである。胸がザワザワと騒いだ。オバさんの言葉は反語なのか?底に悲しみがあるのか?もう2週間が経つ。その日ヒューストンは暑かったが、ニューヨークやワシントンでは涼しい風が吹いていたことだろう。素敵な日になるはずだった。その朝、衝突と未曾有の惨劇。夜TVのニュースでWTCの崩壊を見ながら、「日本の家はMacで構造計算したんだったかな?」と場違いなことを考えた。高層ビルの構造計算。建築科に移りたくて果たせなかった遠い日のことまでを思い出した。60年代には「建築に何が出来るか?」という問いがあった。21世紀のNYでは、何千と言う人の命を道連れに双子のシンボルタワーが崩壊した。ゴッドブレスアメリカの歌声が聞こえる瓦礫の街で、行方不明者の延々と連なる写真を見ながら、現代の日本人音楽家は「人の心を癒す以外に音楽には何も出来ないのか?」と激しく自問する。21歳のレズビアンで詩と音楽を愛する静かな学生が「私は突然愛国者になった」と告白する。犯罪の影にある格差と貧困をあげつらう仲間に心の中で唾を吐きかける。「9月11日を境にすべてが変ってしまった」という声をあちこちで聞く。味方か敵か、YESかNOか、の時代になったのか? はたまた、連帯とか孤立とか?

散髪が終わった。チクチクする首筋を気にしながら、歩いて家に帰った。小さなアメリカ国旗をつけた車の行き交う道路を横断するには、少々のコツが要る。馴れ(狎れ?)と小さな決断が。

(Sept.26, 2001)


ぼくからの返信

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メールありがとうございました。別送した転居通知のメールのように、事務所を神楽坂に移しました。
 メールを読むと、やはりアメリカは大きいのだと思わされます。ニューヨークからヒューストンへニュースがやって来る間に、影響はずいぶん和らげられるようですね。もしかしたら、アメリカの南部よりも日本の方が騒いでいるのかもしれません。
 ぼくがWTCの出来事を見た途端に思ったことは、これでアメリカ人も無差別の空襲を受ける市民の気持ちが分かるようになるのではないかということだったけれど、それは全くのおめでたい間違いだったようですね。はじめは日本のどの新聞も、アフガニスタンを攻撃するというブッシュの報復宣言を批判するところがなかったのには驚きました。
 おかげで、その1週間ほどまえに歌舞伎町の小さな雑居ビルの火事で40人以上の死者を出した事件など、すっかりぼくたちの頭から忘れられてしまいました。現場は新宿のぼくの事務所から100メートルほどのところでしたから、うちの事務所の向かいの大久保病院の救急出入口にも6人が運ばれ全員が死にました。火事が起きたのが午前1時ころで、ぼくは1時半ころに家に帰ったのに、毎日のように鳴るサイレンを聞き慣れた耳には、救急車が多いなと思った程度だったし、事務所で徹夜の作業をしていたうちの娘は、翌朝になってテレビ局のヘリコプターや中継車の引き起こした騒ぎまで何も気付きませんでした。それほどに、新宿のにぎわいは深夜まで続いているということなのでしょう。

 この火事は建物の床面積あたりの死者の数ではWTCをはるかに上回るでしょうが、全体の死者ははるかに少ない。あたりまえのことだけれど、これ以上ないほどにいい加減に使われていた雑居ビルが、すくなくとも作られたときは技術の先端にあった巨大なオフィスビルよりもはるかに被害が小さかった。WTCが、もっと小さなビルの集合であったなら、あるいは超高層でなかったなら、あれほどの被害にはならなかったろうし、そもそも攻撃を受けることもなかったでしょう。もちろんこんなに違うものを比較することには無理があることは承知のうえですが。

 経済というものが、常に成長することを求められ、むりやりに消費を拡大し続けずにはいられないように、技術というものの多くは、人間のためよりも、実は技術そのもののために進歩を続けるものだという、いつもの疑問を新たにしました。おそらく、そうやって勝手に成長してゆくであろう遺伝子技術などわれわれをどういう世界に導いてゆくのかと。

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