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「季節を抱きしめて」ショートストーリー

春を告げに…

作者・司書
 今年、ボクが思い出桜の花を見たのは、四月もまだ始まったばかりの小雨が降る日だった。

 ちょうど新学期が始まる日と重なったことも相まって、道行く人々が不思議そうに桜を見ながら過ぎ去っていく。

 みんなが不思議そうな視線を投げかけるのも無理はない。

 何しろこの桜の木は遅咲き中の遅咲き桜なのだから。

 それが今年に限ってどの桜よりも早く咲いたとなれば、誰だって不思議に思う。もちろん、このボクも…。

 思い出桜の開花が遅いのにはちゃんと理由がある。

 桜の木に春を告げて花を咲かせる精霊がほかの木よりも遅くやってくるからだ。

 そんなことをいきなり言われても信じる人は少ないと思う。

 ボクもあの出来事がなければ、信じようとはしなかっただろう。


 …三年前の春、ボクはこの木の下で一人の女の子と出会った。

 麻由という名の記憶喪失の子だ。

 高校時代に片思いをしていて、その時にはすでに事故で亡くなっていた子と、

 名前も姿も瓜二つの彼女のためにボクは記憶探しの手伝いを始めた。

 …正直に言えば、最初は口実だった。

 麻由はボクのことをずいぶんと頼りにしてくれていたから、一緒に記憶を探している間は側にいてくれると思って…。

 でも、いつしかボクは本気で彼女の記憶が戻ればいいと考えるようになっていた。

 たとえそれが元で麻由がボクから去っていくことになったとしても…そんな覚悟までしていた。

 数日後、彼女の記憶は戻った。忘れもしない、雷混じりの大雨の日のことだった。

 麻由は自分の正体を思い出し、空に還っていった…。


 そう、この木に春を告げる精というのは麻由のことだ。

 後から聞いた話では記憶を失ったのもこの木から足を滑らせて落ちたのが原因らしい。

 でも、麻由とはこれっきりになったわけじゃなかった。

 毎年、思い出桜に花が咲く、そのたった一日だけ、麻由はボクの夢に現れる。

 夢と言っても普通の夢とは違い、目覚めた後も、数日経っても話したことや彼女の表情はしっかりと覚えている。

 まるで織姫と彦星のように、ボクらはその一日だけ会うことができたのだ。去年も、その前も…。

 それなのに、今年は何の前触れもなく花が咲いていた。

 ほかの人以上に不思議に思ったボクは、木の幹に寄りかかって雨をしのぎながら時間をつぶすことにした。

 枝々が雨は防いでくれているものの、地面には水たまりができているので座ることはできない。

 少し疲れるのを覚悟でボクは立っていた。


 一時間過ぎ…二時間過ぎ…とうとうあたりは真っ暗になってしまった。

 春とはいえ、まだ日は短くて夜は冷え込む。仕方なく、ボクは後ろ髪を引かれる思いで大学を後にした。

 帰り道の間中ずっと考え事をしていたせいで、雨がやんでいることに気づいたのは自宅のすぐ近くになってからだった。

 傘を畳んで空を見上げればそこは満天の星空が広がっている。

 四月だから天の川は見えないけれど、今日が七夕なら織姫と彦星はきっと出会えることだろう…。

 七夕の二人に麻由と自分を重ね合わせていることに気恥ずかしさを感じたのか、歩みが自然と早くなる。

 歩きなれた道にできた水たまりを何気なく避けながら家の前にたどり着く。

 いつも通り二階への階段に足をかけたその時、家の玄関先で何かが動いたように思えた。

 目を凝らして見ると、誰かがいる。暗闇でよくは見えないが、確かにそこにいる。

 泥棒…ならあんな鍵を開けるのなんて簡単だろうし、酔っぱらいにしてはここは繁華街からは離れすぎている。

 それに威張れたことではないが、今のボクにはわざわざ家まできてくれる友人なんていない。

 そんなことを考えた次の瞬間、ボクは何かに背中を押されたかのように階段を駆け上がっていた。

「やっぱり…でも、何で…」

 うずくまっている子の正体を見極めたボクは、思わずその場にへたり込んでいた。

 …麻由だった…。麻由が玄関前に座ったまま眠っていた。

 あまりの驚きで体が硬直して声が詰まる。

 まるで金縛りになったように動けないでいると、麻由がゆっくりと目を開けた。

 二つの瞳がボクを捕らえると一瞬きょとんとした表情を見せ、すぐに満面の笑みを浮かべる。

「お帰りなさい」

「ど…どう…して?」

 混乱していたボクには、精一杯の反応だった。

 そんなボクの様子がよほどおかしかったのだろうか、麻由は笑いながら手を差し伸べてくれる。

「えーと…いろいろあって戻ってきちゃったんです。それで…」

「麻由、とりあえず家に入ろう。話はその後で聞くから」

 ボクは麻由の言葉を遮ると玄関を開けて、彼女を連れて家へと入った。

 本当ならもっといろいろと話したいところだったが、ずぶ濡れになっていた麻由をそのままにはできなかった。

 家にはいるとすぐに湯沸かし器のスイッチを入れ、

 洋服ダンスの中を漁ってトレーナーの上下を引きずり出す。

 服を麻由に渡してシャワーを浴びてくるように言い含めると、

 今度は台所の戸棚からインスタントコーヒーを用意してやかんを火にかける。

 自分でも驚くくらいに手際よく物事をこなしていると思ったのは、

 麻由にコーヒーを勧めてシャワーを浴びているときだった。

 そこまでは本当に無我夢中という言葉そのものだったに違いない。


 結局、一心地ついたのは家に帰ってから小一時間もしてからのことだった。

「で、いろいろあったって言ったけど、何があったの?」

「実は…桜の精やめされられちゃいました」

 照れ笑いをしながら、麻由は言った。

「やめさせられたって…何で!」

 声を荒げてしまったボクとは反対に、麻由はいたって冷静に答える。

「ほら、私ドジだから…いつも他の桜の精より仕事遅れがちだったんです。

 この辺はまだ他より三日くらいの遅れで済んでいるけど、もっと北の方では予定よりずっと遅れるものだから、

 桜の神様に地上に戻されて…」

 麻由の話を聞いたボクの頭に、会社の上司に怒られている麻由の姿が浮かんだ。

 精霊たちの世界も人間の世界と大差ないような気がしてくる。

 とは思ってもまるで笑えない冗談だ。

「そうなんだ…」

 どう励ましたものかと思っていると、麻由はボクに抱きついてきた。

「でもそれでもいいの…そのおかげでまたここに戻ってこれたから…」

 無理をして元気に言っているのがすぐにわかった。

 誰よりも元気で気丈なこの子は、誰よりも繊細で傷つきやすい。現に今だって、麻由の肩は微かに震えている。

「せっかくまた会えたのにごめんなさい。でも今は…今だけは…」

「気にしなくっていいよ。思いっきり泣けばすっきりするから」


 どのくらいの間麻由は泣いていただろうか。やがて彼女は静かな寝息を立て始めた。

 麻由を起こさないようにそっとベットに寝かしつけてやると、ボクはボクでソファーに横になった。

 彼女はまた三年前と同じ境遇になってしまったのがよほどショックだったのだろう。

 いや、なまじ記憶が残っているだけに今回の方が残酷かもしれない。

 いったいどんな気持ちでボクの帰りを待っていたのだろう。それを思うと胸が締め付けられるようだ。

 何とかして麻由を守りたい。今度こそ…。

 そんなことを考えているうちに、いつしかボクも眠りの世界へと引き込まれていく…。



 翌日、ボクが目を覚ますと、麻由はすでに朝食の用意をしていた。

「おはよう。もうすぐ朝ご飯できますからね」

「ありがとう。でももう平気なのかい?」

「ええ、一晩泣いたら落ち着いちゃったから」

「そう、それはよかった」

 そうは言っても、やっぱり麻由は今ひとつ元気がなかった。

 朝食の片づけをしてくれている時も、どこか落ち込んでいる様子が感じ取れる。

「さてと、ボクはそろそろ大学行くよ」

「はい、いってらっしゃい」

 靴ひもを結びながら、ボクは麻由に声をかけた。

「昨日の夜、考えたんだけどさ。やっぱり麻由は春の精だと思うよ」

「え?でも私はもう…」

「桜の精じゃないかもしれないけど、でもボクには春の訪れを告げてくれたろ?」

 あまりの恥ずかしさでボクは麻由の方を振り返ることができなかった。

 でも、麻由が泣いたのはきっと悲しいからじゃない…と思う。

 反応に困ったボクは時計に目を落とした。針は九時五分前を指していた。

「うわ、もうこんな時間か。急がないと!」

 急いで階段を駆け下りると、二階にいる麻由に手を振ってボクは学校への道を行く。




 ………この日、春一番が吹いた。町にも、ボクにも、そしてきっと麻由にも………











あとがき-司書-

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