| 高橋氏 (一萬田系) |
| 高橋鑑種 (?〜1579) |
大友一族で家臣の一萬田氏の出身。一萬田親泰の子、一萬田鑑實と同族。
遅くとも天文15年(1546)には筑後の高橋村を本貫地とする大蔵姓高橋氏の養子となって高橋家を継いでいる。官途は三河守、入道名は宗仙。
天文20年(1551)大友義鎮の弟晴英が大内氏を継いだとき、晴英に付随して山口に赴き、九州担当官となる。地位は大内家臣の最高位である評定衆ではなく、それに次ぐ奉行であったらしい。
弘治3年(1557)大内義長(大友晴英)が毛利元就に滅ぼされると再び大友氏に仕え、筑前御笠郡の岩屋・寶満両城の城督に就任し、御笠郡を中心に筑前に於ける大友氏の軍事・行政面を代表する存在となった。
しかし永禄4年(1561)、毛利氏の誘いに応じて寝返り、岩屋・寶満を拠点として反旗を翻し、毛利氏の豊前侵攻を助けた。永禄8年(1565)、大友・毛利の講和により、岩屋・寶満両城の領有を認められた、永禄10年(1567)、秋月種實等と再び反乱を起こす。大友氏は主力を筑前につぎ込んだが、鑑種は誘いに応じた立花城主立花鑑載を助けるために敵中を突破して立花城入城を果たすなどして奮戦した。永禄12年(1569)鑑載は敗死し立花城は大友氏のものになったのもつかの間、この状況に乗じ豊前に侵入していた毛利氏によって再び立花城は落城、毛利の手に落ちた。
そこで大友宗麟は、領内に居候していた大内輝弘に周防山口を奇襲させて毛利軍を撤退させ、元亀元年(1570)大友と毛利の講和が再び成立した。これにより鑑種は筑前を追放になったが、毛利氏から豊前小倉城を与えられ、小倉で盟友秋月種實の子元種を養子とした。
天正6年(1578)大友宗麟が日向高城にて島津軍に大敗したので翌年再び種實等と大友氏に挑み、豊前田川郡の要衝香春岳を陥としたが、この年に病死した。
Copyright(C) Myokyo1997-2001 All right reserved