戸次道雪
 (1513〜1585)

豊後の戸次(べっき)氏の十五代惣領で、大友氏の重臣。
永正10年(1513)3月17日、藤北鎧嶽城中藪河原之館にて誕生する。
(「立花家譜」)幼名八幡丸。
父は戸次親家。母は由布氏。
大永6年家督を継ぐ。(この年、親家死去。享年49)
実名は鑑連。官途は伯耆守、丹後守。天正2年(1574)、入道して道雪、麟伯軒と号す。

戸次氏は大友重秀(〜1282)に始まる大友一族である。重秀は、豊後国戸次庄(現在大分市戸次・判田地区)を本貫とする大神姓戸次惟澄の養子に迎えられ、大友姓戸次氏の祖となった。
鎌倉期には戸次氏は三百七十五町余りの地頭職を帯し、守護大友氏に匹敵する大領主であった
(豊後国弘安図田帳)
九州における有力な御家人と目され、貞直
(三代)は蒙古合戦を機に鎌倉幕府から鎮西評定衆・引付衆にも補された。大友氏は九州下向後、戸次氏と縁を重ね、絆を強めた。
南北朝の動乱期には頼時
(四代)は南北の間を揺れ動き、所領を没収されたりして次第に勢力を減らしたが、南北朝末期の直光(五代)の代には今川了俊の右筆として在国のまま将軍家の小番衆の内に加えられた。
しかし、直世
(六代)の代に将軍義満の勘気を受け小番衆を解任され、守護大友氏によっても次第に勢力を削られ、本貫戸次庄も失い、戦国期には本拠地を豊後国大野郡藤北名の鎧嶽城に移している(親載(九代)の代)。

以来、戸次氏は低迷するが、鑑連の代に一気に勢力を回復し、やがて三老とよばれる重臣に成長する。
毛利氏との対決をひかえた永禄4年(1561)、戸次氏としてはじめて年寄(加判衆)に就任する。

弘治3年(1557)7月、秋月氏の筑前古処山城、筑紫氏の肥前勝尾城を攻め、これを破る。
永禄5年(1562)には門司関の攻防で指揮官の一人となり、豊前苅田、松山城、柳ヶ浦と転戦し毛利の兵を破り、この年の10月13日に宗麟より戦功を褒せられた。
但し、翌年の正月21日に、同陣者の五條鎮定等の給地坪付に裏判を加えた、つまり仮の知行安堵を行ったことで、7月7日に宗麟より諸士の坪付の裏判を止めるようにと叱責されている。ここでは権限の集約化をはかる大名と、前線で陣頭指揮をとる武将との立場と思惑の違いが顕在している。

永禄10年(1567)、毛利に通じ筑前で反乱を起こした秋月種實、高橋鑑種等の鎮圧の為筑前に派遣される。
7月7日に高橋鑑種の属城筑前岩屋城を攻め落とす。
9月3日の休松の戦いでは種實の夜襲に大友勢は苦戦するが、あらかじめ夜襲に備えていたので、敗走する吉弘、臼杵の友軍を援けながら秋月軍の猛追をかわし筑後へ撤退した。
永禄11年(1568)、「西の大友」と呼ばれた立花鑑載が大友宗家に反旗を翻したが、吉弘、臼杵の軍とともに筑前糟屋郡に攻め入り攻囲の体制を取り、同年7月4日に立花城を攻略し、鑑載を討った。

しかし永禄12年(1569)、大友全軍による肥前の龍造寺隆信討伐の隙に立花城が毛利勢に包囲され、立花城の城兵は毛利に降伏した。
立花城をめぐって大友軍と毛利軍は睨み合い、5月18日、多々良浜に於いて両軍激突。戦況は毛利優勢で押し、大友方は敗軍の様相を呈していたが、鑑連は長尾に布陣する小早川勢が手薄なことを見てとり、自ら太刀を揮って敵陣を強襲して毛利軍を敗退させ戦況を挽回、大友軍を勝利に導いた。

その後宗麟が吉岡宗歓の進言により、大内輝弘を使い毛利本国の留守を衝くという計略を用い、また尼子遺臣山中鹿介らに背後より毛利を攻めさせ、毛利軍は筑前より撤退を余儀なくされる。取り残された秋月種實、高橋鑑種、原田了榮、宗像氏貞、麻生隆實等は大友氏に降った。立花城も再び大友氏の手にはいった。
元亀元年(1570)7月13日、立花城督に補せられ、翌年正月に立花城に入城する。これより大友氏の筑前統治の柱石となる。

天正3年(1575)5月28日、女ァ千代(ぎんちよ)に立花東西及び松尾・白岳城督と筑後・肥後の所領等を譲り、6月18日に大友氏の承認を受けた。
なお、本貫地豊後の所領は先に猶子鎮連に譲渡したと思われる。

天正6年(1578)11月12日に大友氏が日向高城にて島津軍に大敗すると、翌月には龍造寺隆信が筑後(11月19日入)より筑前に侵入してきた。隆信の軍勢は防いだものの、これに応じて秋月、筑紫、高橋鑑種等の筑前国人が再び反乱を起こした。
以後、道雪は盟友高橋紹運とともに筑前の反乱鎮圧のため東奔西走する。
天正9年(1581)8月18日、高橋紹運の長男統虎を養子とする。

天正12年(1584)肥前沖田畷にて龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に討ち取られた。そこで龍造寺氏にほぼ占領された筑後の回復の為に豊後本国と共同作戦をはり、8月19日筑前より出陣した。
まず筑後山下城の蒲池鎮運等を降し、ついで要衝猫尾城を攻め落とし、黒木家永を自害させる。10月には軍を高良山に移し、草野、妙見、井上等を攻撃する。
しかし、柳河城の龍造寺家晴等の予想外の抵抗に苦しめられ、また豊後本国の軍勢の士気の低さに嘆息させられた。
長陣による疲労からか病に罹り、天正13年(1585)9月11日、御井郡北野の陣中(久留米市御井町)で歿す。享年73歳。のち立花城の麓の梅岳寺に葬られる。
道雪の死により、大友氏の筑後奪回作戦は頓挫した。

※なお、天正6年以降の合戦等の詳細、及び領国統治等に関する事項については、後日追加予定


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