| 高橋紹運 |
| (1548〜1586) |
大友氏の重臣吉弘鑑理の次男。実名は鎮理、のち鎮種。入道して主膳入道紹運と名乗る。
大友氏に叛いた高橋鑑種が豊前に追放された後、元亀元年(1570)に高橋氏を継ぎ、併せて筑前御笠郡の岩屋・寶満両城の城督に就任した。御笠郡を中心に筑前南部の軍事及び行政の要となる。
天正6年(1578)大友氏が日向高城にて島津軍に大敗を喫した後、筑前に於いても天正7年(1579)に秋月種實、原田信種、宗像氏貞等による大友氏に対する反乱が起こり、盟友である立花城督戸次鑑連(道雪)と共に鎮圧にあたる。
天正12年(1584)には道雪と共に龍造寺隆信によって侵略された筑後への遠征軍を組織して、豊後本国の大友勢と共同行動をとる。しかし翌年9月、戸次道雪の病没により大友氏の筑後奪回作戦は頓挫、紹運筑前に撤退した。筑後出兵中に筑紫広門が紹運の次男統増の守る寶満城を奇襲で奪うが、広門が大友氏に帰参する為に娘と統増との婚姻を持ちかけたので、婿引出物として統増夫妻が寶満城を守ることとなり、紹運は岩屋城に入った。
天正14年(1586)島津勢が筑後を制圧して筑前に迫り、紹運に降伏を勧めたが、降伏を拒絶し籠城する。一ヶ月以上島津勢の包囲が続いたが、7月27日早晩、島津直属軍を前面に立てて一斉に攻めかかった。夕刻に岩屋城は落城、紹運は自害、城兵たちも玉砕した。しかしこの戦闘の為に日向から呼び寄せた上井覚兼率いる宮崎衆は殆ど討死あるいは負傷し、覚兼自身も負傷した。他の島津主力軍も同様に大打撃を受けた。その後島津勢は積極的な軍事行動をとることが出来なくなり、島津の九州統一の野望は潰えた。
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