蒲池氏
 蒲池鑑盛 (1519〜1578)

鑑久の子。官途は武蔵守。入道して宗雪と号す。
宇都宮氏の系統。筑後柳河の国人領主で大友家に属する。

これまでの蒲池城が手狭になったので、大友氏の許可を得て領内の柳河に築城する。鑑盛はこの柳河城を築く際、瀬高より柳河に至る道を改修し、治水対策も力を入れるなど、交通、民政に意を注いでいる。

天文14年(1545)、肥前で少貮氏が龍造寺一族の主立った者を滅亡寸前へと追い込み、生き残った一門の総帥の龍造寺家兼(入道して剛忠)が鑑盛を頼って筑後に落ち延びてきたので、彼等を領内の一木村に住まわせ手厚く保護した。

また、天文20年(1551)10月、家兼の曾孫で龍造寺家当主となった隆信も、龍造寺家の後ろ盾であった大内義隆自害の混乱に乗じて攻めてきた少貮氏に佐嘉城を追われたが、このときも鑑盛は隆信等を領内にかくまった。
反大友の立場の隆信を討つことは何でもなかったであろうが、武士の戦は戦場にてという信条を持ち、卑怯な振る舞いを嫌う鑑盛は、失意の中にある隆信を励まし、物心両面より援助を惜しまなかった。

天正6年(1578)、鑑盛は隠居の身にも拘らず大友氏の日向遠征に手勢三千を率い従軍する。しかし子の鎮並は龍造寺氏に内通していたので、落馬を理由に筑後に引き返してしまった。
鑑盛は
如何に鎮並、年來大友の重恩を請け、斯かる先途を見届けず、其上六十に餘る親の戰場へ赴くを見捨てゝ、己れ一人家に歸るといふ法やある。必ず汝、天の罰を蒙るべし(『北肥戦誌』)
と嘆息したが、自身は八百の兵を率いて大友の為に戦いて、やがて味方が敗北しても一歩も退かず島津義久めがけて斬り込み、最期は潔く自害した。享年59歳。


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