種子島氏
 (恵時、時尭、久時)

鎌倉時代中期、島津荘大隈方惣地頭名越氏の代官肥後氏が種子島の領主に任じられるが、その一流が種子島氏となり、鎌倉幕府滅亡後も在地領主として支配を継続し、島主となる。
その後種子島は曲折はあったものの、近世にも引き継がれ、種子島氏の私領となる。

なお、元禄11年(1698)に琉球国王から甘藷一籠(さつまいも)を得た伊時(19代久基の前名)は、これを石寺の地に植えて栽培に成功した。
明治33年(1900)守時のとき、特旨により男爵を授けられた。

史料に『種子島家譜』、『種子島男爵家文書』がある。

 

 種子島恵時 (1503〜1567)

文亀3年(1503)生まれ。
種子島氏13代。右兵衛尉、加賀入道、意鈞と号す。
天文12年(1543)、禰寝氏に追われて屋久島へ逃れる。
天文8年(1539)の市来平城攻め、天文17年(1548)北原攻め、翌年の加治木攻め等で島津貴久に従う。
永禄10年(1567)没。65歳

 

 種子島時尭 (1528〜1579)

種子島氏14代。
享禄元年(1528)生まれ。 幼名犬楠丸。初め直時と名乗る。
従五位下、官途は弾正忠。弘治4年(1558)以降は左近衛将監を称す。可鈞と号す。

天文11年(1542)には父恵時(加賀入道)と対立するが、島津貴久の調停により和睦。
また、禰寝氏との抗争が30年間近く続き、屋久島等に築城している。

天文12年(1543)、五峰と名乗る倭寇の大頭目で密貿易を生業としている王直のジャンク船が、シャムよりシナに向かう途中暴風雨に遭い、種子島に漂着する。
王直などの倭寇は禁制品の硝石や硫黄を重要な交易品としていたが、鉄炮もセットで取り扱っていたらしい。
ともあれ時尭は家臣の篠川小四郎に火薬を、鍛治の八板金兵衛に製造法を学ばせて、鉄炮の模作に成功した。

その後、政治的に島津氏に接近し、貴久、義久の二代にわたって仕える。
弘治元年、島津義久の蒲生攻めに従う。
また、永禄から天正年間にかけての島津氏による肝付攻めには家臣を派遣した。
永禄3年(1560)家督を長男時次に譲るが、永禄5年(1562)に7歳で早世したため家督に復した。
なお、女は島津義久の後室となる。
天文7年(1579)10月2日没。52歳。

時尭の名を永く後世に伝えたのは、鉄炮伝来の時の種子島島主であったという歴史事実である。

 

 種子島久時 (1568〜1611)

種子島氏16代。時尭の次男。
永禄11年(1568)生まれ。幼名鶴袈裟丸。
三郎次郎、左近大夫、一琢と号す。

天正7年(1579)、島津義久の加冠により元服。
島津氏による肥筑方面への作戦に家臣を派遣した。
天正11年(1583)、田布施にて義久の前へ走り出た猪を捕らえ賞された。
天正18年(1590)、島津久保に従い小田原の陣に赴き、秀吉に会う。
文禄慶長の役にも従う。

文禄4年(1595)に太閤検地にともない知覧に移封されたが、慶長4年(1599)に復封。だが同時に屋久島、口永良部島を失う。
久時は、義弘、家久の家老を務め、以降種子島氏は薩摩藩の重臣となる。
慶長16年(1611)没。44歳。

なお『鉄炮記』(慶長11年(1606)、大竜寺の禅僧で島津氏に重用された南浦文之が著す)は、砲術が盛んになったこの頃、久時が父の時尭の鉄炮入手の功績を顕彰する為に、編纂された書物である。


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