| 上井覚兼 |
| (1545〜1589) |
本姓は諏訪氏で、上井薫兼の子。天文14年(1545)2月11日 、大隅国姶良郡上井村(現在鹿児島県国分市)に生れる。
元は為兼と名乗る。通称は神五郎、のち神左衛門。
島津貴久の代より仕え、ついで義久の代に奏者となり、天正4年(1576)に老中職に抜擢された。これより伊勢守と称し、ついで名乗りを覚兼と改めた。天正8年(1580)8月以降は日向宮崎城主となり、同国佐土原の領主島津家久による日向の統治を輔けた。
覚兼は武人ながらも文筆に長じ文芸の嗜みが深く、当時の実相と武人の生活を天正2年(1574)以来の詳細な日記に書き残した。連歌、俳諧、茶の湯、立花、蹴鞠、狂言、幸若舞、乱舞、小唄、平家琵琶…の文芸関係の記載も多く(つまり本人がそれ程はまっていたということ)、戦国末期の史料として極めて貴重である。別に『伊勢守心得書』と題する自叙伝風の随筆も記している。
文学書で最も愛読したのは『太平記』『平家物語』『伊勢物語』等で、これらは何かの会合の際などに、よく朗読して聴聞させている。
また宗教面においても、法華経、毘沙門天、薬師如来、観世音菩薩、地蔵菩薩、天神、庚申、荒神等諸仏諸神の信仰に明け暮れている。
軍事面においても、義久の九州制覇の為に東奔西走し、「寔軍陣軍旅戦場常在也」という有様であった。日向勢を率いて天正9年(1581)から天正年13(1585)にかけて四度肥後へ出陣し、天正14年(1586)7月27日には大友氏の武将高橋紹運の守る筑前岩屋城への島津勢の総攻撃のとき、石打と鉄放とに当たって負傷した。同年10月15日、家久と共に大友氏の本国である豊後に攻め入り各地を転戦する。
しかし翌15年3月、豊臣秀吉の大軍の西下とともに兵を収めて宮崎に撤退。やがて羽柴秀長に降伏し鹿児島に帰り、程なく薩摩伊集院に隠栖する。天正17(1589)6月12日没。法名を一超宗咄といい、妙円寺に葬られた。
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