定年後の読書ノートより
敗北を抱きしめて、第9〜11章、天皇制民主主義、ジョン・ダワー著、岩波書店
天皇の敗戦の放送は、事実上、宮廷と政府が派手に振り付けした「国体護持」戦略の始動を告げる合図であった。

戦中からアメリカは天皇を攻撃して日本をいたずらに挑発するのは損であると判断し避けてきた。この戦略は戦後のアメリカ占領政策にも引き継がれた。天皇は日本軍の完全降伏を実現する上で、戦後の日本民主化精神的中核として、占領政策を進めて行く上に必要であり利用価値があるとアメリカは判断した。しかし、天皇裕仁は戦争の扇動者であり、最高責任者であることは事実である。天皇裕仁を、戦犯追求から如何に避け、如何にうまく利用するか、アメリカは様々な方策を用いた。

1945年9月27日、マッカーサー元帥と天皇裕仁の写真は国民に大きな衝撃を与えた。礼装モーニング姿で緊張して直立する天皇裕仁の横に立つ、開襟シャツで勲章もつけず、両手を腰にあて、気楽といって良い姿勢で立つマッカーサー元帥。国民はアメリカの占領をこの写真によって明確に認識した。しかし、アメリカの一部にはこの写真は、天皇裕仁を護るマッカーサーの決意を示すものとして受け止められている。

天皇の戦争犯罪人としての責任追及を如何にかわしていくか、アメリカは天皇を利用する見地から周到におぜん立てしていった。アメリカは天皇のイメージ造りに巧妙に動いた。宮中における蛍狩り、花見、竹の子狩り、鴨猟には東京裁判裁判長やアメリカ主席検事等も招かれた。アメリカは天皇と軍国主義者達との間に、くさびを打込み、軍部に対する憎悪は天皇に及ばないよう、心理学的配慮をいくつも重ねた。

天皇裕仁に新しい服を着せ、平和と民主主義の象徴に転換させる運動は、アメリカと日本の間で巧妙に緊密に進められた。東京戦争犯罪法廷で、天皇裕仁の訴追を行なわせない為の莫大な努力がはらわれた。憲法における天皇の地位はすっかり改められ、公的な権力は剥奪された。天皇は、もはや神であることを主張しないという巧妙な宣言は、1946年1月1日、天皇が臣民に語り掛けるという形式で発表された。おぜん立ては、周到にアメリカ側より、日本側関係者に指示されたが、その過程で、日本側は、難解で謎めいた言葉にすることによって、天皇裕仁は巧妙に途中まで降りてきたばかりであった。何人かの人間はGHQと宮中の連絡係を引き受けた。

両国の言葉の段差から、国家に対する忠誠心は、人間性に対する義務の下位に置かれるようなこともなく、巧妙に皇室の権威を維持する努力が重ねられた。

何が起ろうが、お上は自らのいろをかえることは最後までなかった。

天皇は占領軍当局にとって、最善の協力者であり、占領が継続する限り、天皇制は存続せねばならないとアメリカ側は考えた。ソ連がすすめる、共産主義化を阻止するには、この方針は非常に重要であった。

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